日本の伝統音楽小史(3)平曲・猿楽・田楽

【日本の音楽⑤】平曲

鎌倉時代、新たな権力を獲得した武士、民衆を味方にした僧侶、伝統の上にわずかに力を残した貴族の三者によって歴史の歯車が回された。
そのような時代に、権力闘争と無上の世相を描写した軍記物語が現れ、中でも「平家物語」が人々に強い共感を与えたのである。
文字を読むことのできない盲目の琵琶法師によって伝えられた。
平曲はその後の謡曲浄瑠璃にも多大な影響を与えて、日本伝統音楽の最も大きな節目を作ったといってよいだろう。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の世の夢のごとし。
猛き者もついには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
琵琶法師たちは、それまでの歌にはない、鋭角の言葉を多用した。上の文のように「シャ・シュ・ショ」「ジャ・ジュ・ジョ」などの拗濁音(ようだくおん)を駆使して音響効果を高め、物語を演出したのである。(「三つの君が代」)

 

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

 

今聞いてみると、意外と聞きやすい。
音節を一つ一つ伸ばす節回しはあっても、言葉と琵琶の音が交互に繰り広げられるせいか。
琵琶の音色と、このような語りで平家物語の世界が聞く者の心を揺さぶり、当時の人々が好んで広く聞かれていたのは、時を経て、今ここでこの節を聞いただけでも、そうだろうと感じられる、感性が脈々と続いているのを確信します。


平家琵琶(平曲)祇園精舎その1/館山甲午

 

【日本の音楽⑥】猿楽

鎌倉時代に「能」が起こる前、奈良時代に中国から伝わった「散楽」という曲芸や記述、歌病を伴った芸術があった。雅楽とともに宮中で行われていたが、のちに市中に出た。
「猿楽」は伎楽や散楽をルーツとして、滑稽な物真似芸(現代と違い、亀やカニ、昆虫などの真似)が民衆の人気を集めるようになった。(「三つの君が代」ほか)
これは「能」より「狂言」のルーツに近いのかな?という気がします。
ネットで探すと猿楽は、滋賀県多賀神社の万燈祭のものがヒットするけど、90年代に復興して続けているものの、そのエッセンスは伝わってくる感じがします。


多賀大社万燈祭2015 「近江猿楽多賀座」そのー1

 

【日本の音楽⑦】田楽


田楽は、田に関する行事から生まれ、奈良時代の671年、「田楽の舞」が初めて宮中で行われたという記録がある。
当初、田植えの労働のための笛や腰鼓やササラなどを使った群舞であったが、後には「田楽法師」のような専門家が現れ、市中で群舞とともに竹馬のような高い棒に乗って(「豆腐田楽」の由来)、曲芸を行った。(「三つの君が代」)
和歌山県那智の田楽は、大正期に復興され、現代まで受け継がれているそうです。動きが定型化しているけど、素朴さも残っていて、ナレーションが土地の訛りなのがいいです笑


那智の田楽

日本の伝統音楽小史(2)伎楽・雅楽・声明・今様

【日本の音楽①】伎楽(きがく)

一番古い記録では5世紀に大陸から伝来したそうです。
またそれとは別に、「伎楽」という仮面音楽舞踏劇も伝わり、呉舞ともいわれ、長江下流の呉(中国長江下流域)から伝わったとされ、今も毎年薬師寺で伎楽の奉納が行われています(平成4年から復興した)。この中に獅子が出てきますが、獅子舞の原型とも言われているとか。
とても素朴でのどかな感じが奈良っぽい(^-^)。

平城京 | キャンペーン | うましうるわし奈良 | JR東海 -日本最古の仮面劇- 伎楽とはなんぞや?

http:// http://nara.jr-central.co.jp/campaign/heijyokyo/special/gigaku.html

 

【日本の音楽②】雅楽

8世紀(奈良時代)には、「雅楽寮(うたまいのつかさ)」が701年に創設され、「和楽」のほか唐楽、三韓楽(朝鮮半島)、伎楽、ベトナム、タイの音楽などが学習されていたが、30年ほど過ぎたら「和楽」は縮小され、外来音楽(唐楽を中心にしたもの)が中心になったらしい。
優れた外国音楽が土着の音楽を圧倒し、駆逐する現象は明治維新のはるか昔にも行われていた。(内藤孝敏著「三つの君が代」) 

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

 
日本人はやっぱり基本的には新し物好きなんでしょうかね。
動画の楽器は、篳篥(ひちりき)、笙、龍笛の管楽器、弦楽器は、筝、琵琶、打楽器は羯鼓(かっこ)(小さい横置きの鼓型)、太鼓(銅鑼大)、鉦鼓(しょうこ、鐘のような音色)


管絃 壱越調 春鶯囀遊聲 Kangen Ichikotsucho Shun-noden no Yusei

【日本の音楽③】声明

736年、インドのバラモン僧が仏教儀式音楽「声明(しょうみょう)」を伝えた。これは宗教だけでなく、日本の音楽にとっても非常に大きな出来事であった。日本仏教サンスクリット語や中国語を正式な声明としていたが、次第に日本語を使って歌うようになり、それが様々な形で日本の芸能に影響を与えるようになったのである。(「三つの君が代」)
その前の時代の雅楽とは趣が違い、歌の節回しという意味では、文楽で聞くものに近く、それに通じるものを感じます(*^-^*)


【声明】 高野山真言宗 「理趣経」 中曲 合殺 於:神戸・西室院

 

【日本の音楽④】今様

平安末期、後白河法皇は歌をとても好み「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」(優れた声の響きが建物の梁の塵を落とした、という中国の故事に因む)という今様(いまよう)を編纂。ここでいう歌は和歌のような詠む歌ではなく、歌うための歌。(「三つの君が代」)


「舞へ舞へ蝸牛  舞はぬものならば 

馬の子や牛の子に蹴ゑさせてむ 踏み破らせてむ 

実に美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせむ 」

(かたつむり舞いなさい、舞いなさい。舞わないのなら、馬の子や牛の子に蹴らせようか。踏み割らせようか。ちゃんと可愛らしく舞ったなら、きれいな花の庭に連れていって遊ばせてあげる)


「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、

遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」
(遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。
遊んでいる子供の声を聴いていると、感動のために私の身体さえも動いてしまう。)


などが有名らしいですが、今読むと新鮮だけど、前からあったような懐かしい、小さな者への眼差しが細やかで愛情を感じる歌です。
動画の歌の節回しは当時のものではなく、オリジナルのようです(^^;

 


【初音ミク】遊びをせんとや生れけむ【梁塵秘抄】

日本の伝統音楽小史(1)

海外の伝統音楽を聴いていると、現代ポップスに通じる連綿とした繋がりを多少なりとも感じるけれど、日本の伝統音楽って何かと考えると、明らかに西洋音楽とは音階が違っている、民謡や演歌や浪曲の節回しのようなイメージで、現代のいわゆるJ-Popからはかなり遠く、忘れ去られようとしている気がする。

日本の伝統音楽は、確かに良いと思うのだけど、聞いてると眠くなったり、退屈に感じることがある(感性の問題?)。

だけど、明治初期の文明開化に燃えた人たちが、いとも簡単に日本の伝統音楽から西洋音楽を取り入れることに乗り換えたのは、西洋に認められようとしていたとはいえ、とっても残念。

そんな私自身もすっかり西洋音楽に馴染み、親しみを感じてる。

「このような「単調で不調和で粗雑で金切り声のギーギーキーキーした歌や、ピアノの調律のような一本調子の琴」といった外国人の評価を耳にして、文明人気取りの明治の政治家や官僚たちが日本伝統音楽を捨てようとしたのは当然かもしれない。
西洋音楽は、その作品・理論・楽器・演奏法・合奏法・教育法、どれをとってみても圧倒的に優れていて、日本伝統音楽とは比較にならなかったのである。しかも、1868年頃の西洋音楽は、その歴史の中で最も充実した時代を迎えていた。

明治元年における西洋大作曲家たち>
ベートーベン没後41年、ショパン没後19年、シューマン没後12年。
(当時存命の作曲家↓)
ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーブルックナーヨハン・シュトラウスブラームスサンサーンスビゼーチャイコフスキードヴォルザークフォーレ
(中略)文明開化の日本に音立てて一気に流入してきた明治元年西洋音楽は、このような天才作曲家たちが綺羅星のごとく並ぶ音楽史上最も輝かしい時代だったのである。」(「三つの君が代内藤孝敏著 から引用)


だけど、確かにこのような顔ぶれの人たちによる音楽は、あまりにもまばゆく、輝きを放ち、マイナー音階の日本伝統音楽は、その輝きによって霞み見えなくなってしまうほどだったのかもしれない。
だけど、そうは簡単に日本伝統音楽を消し去ることはなかったし、とどまり続けている。
音楽は風土と生活と言葉がその土地の人に深く関わっているものだと思うし、日本人は西洋人とは違うものが血肉となっているから、日本人の要素を持ち続けたまま、西洋文明と向き合うしかないし、そうでないと「あんた誰?」ということになってしまう。

 

その辺りのことを少し掘り下げれば、今との繋がり、または隔絶している様が感じられるような気がするので、この本を少し読み進めてみようと思う。

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

 

護国神社へ

 8月15日は「終戦の日」として、靖国神社へ参拝する人が多いけれど、ここ数年の靖国神社は、英霊に感謝し、慰霊し、顕彰する気持ちを捧げるのを忘れたかのような、騒々しさ、愛国イベント会場然とした場所に感じられ、足が遠のいていました。

 

 各地には護国神社があり、そこでも英霊をお祀りしていると聞きました。

 戦死した伯父は、戦歴資料によると茨城県にご縁があるようなので、今年は茨城県護国神社へお参りに行きました。

 

f:id:nekotower:20170815141919j:plain

 午前中に慰霊祭が行われたようでしたが、到着したのが午後でしたので、境内には人も疎らでした。

 けれどここでも、きっとほかの護国神社と同じように、英霊への感謝や慰霊は靖国神社と違うことなく捧げられているし、私たちやあとに続く人たちが忘れない限り、過去に思いを馳せ、今に伝え、未来へ繋ぐ営みは途絶えることなく続いていくのだと思いを新たにしました。

 

みたままつり

f:id:nekotower:20170713202950j:plain

靖國神社のみたままつりへ行ってきました。

家にご案内の郵便は来ていたのですが、数年前に行ったときのもはや何の行事なのか分らないほどの人ごみに行くのに躊躇していたのですが、お誘いをいただいたこともあり行ってきたのですが、行ってよかったの一言。声をかけてくれた方には感謝です。

 

今年は参道の両端に並んでいた露店が一切なくなり、初日だったこともあり、ゆったりと参道を歩き、名物の提燈もゆったりと見ることができました。

 

f:id:nekotower:20170713183658j:plain

参道の途中にある、大村益次郎像の周りで盆踊り。
東京音頭や炭坑節など、子供の頃に近所の盆踊り大会で聞いた懐かしい節が聞こえ、思わず踊りの輪の中に入りたくなってしまいました。

でもこうして踊っている人たちの美しい仕草を見ていたら、ど素人が気紛れに踊りの輪の中に入るのは違うな、と思い、じっと見させて(写真を撮らせて)もらうにとどめました。
みたままつりは昭和22年に英霊を慰めるために盆踊りを行ったのが始まりと聞きましたが、本当にそうなのだろうなと見ながら感じました。

f:id:nekotower:20170713193858j:plain

昇殿参拝をさせていただき、伯父や英霊の皆様を思い浮かべていました。
「感謝しています。忘れてはいません」
という言葉では全く足りていなくて、それ以上は何も言えずにいろんな思いの中でお参りさせていただきました。

f:id:nekotower:20170713195102j:plain

 

f:id:nekotower:20170713195354j:plain

お盆で御霊をお迎えして、再び死者と生者が交じり合う。

この昔からある暮らしの中の節目と、靖國の英霊を慰めることはとても日本的で自然なものであると今更ながら感じました。


8月15日にお参りすることがあまりに喧噪的になってしまった今日、みたままつりで英霊に会いに行けたことはとてもありがたく、うれしく感じました。

 

f:id:nekotower:20170713204147j:plain

 

遺族や戦友の思い

私の祖父は、明治の終わり頃に徳島から上京して来たのですが、詳細がわからなくて、3年くらい前、家系図調査をしていた時がありました。

そこには、伯父が戦死した日と場所がフィリピン上空であると書かれていました。

その頃、ネットを見ていたら戦死した伯父のすぐ下の弟にあたる伯父が記していた文章を見つけました。

 

これを読んで、我が子を戦争で亡くした親やその兄弟姉妹、戦友といった人達の英霊への思い、そして、過ぎて行く年月とともに彼等の存在や戦争の記憶や、何よりも彼等自身の思いが流され、忘れられてしまうことを憂い、恐れていたことを強く感じました。

 

今を生きる私にはない、切実な思いを知って、それに思い至らない自分に愕然。

同時にそれに少しでも近付きたいという思いもふつふつとして来ました。

 

ーーーーーーーーーー

冒頭から私事で恐縮ですが、私の次兄は陸軍の航空操縦員でヒリッピン沖で特攻戦死をしていて、その命日が十二月十八日である。

ここ十七年来、私はその日、母と倶に靖国神社へ行き、昇殿参拝をさせていただいている。十七年前はじめて靖国神社から通知をいただいて参拝した時は、およそ百名ばかりの遺族の方々がお集りになっていた。主にご両親が多く、妻子の方々はごく少数であったようだ。戦死した人が年若く、ほとんど独身であったろうから、これは当然であろう、とその時思ったことを記憶している。

それから毎年母と供に昇殿参拝をさせていただいて、私はその度に深く悲しみに沈まないことはなかった。それは、毎年の如く参拝者の数が激減してゆくからである。その激減ぶりは正に櫛の歯が欠けてゆく如くであった。一年に一割などというものではなく、二割、三割ずつという具合であった。そして私は、昨年に至って愕然たるものを憶えた。なんと私たち兄弟を入れてたったの八名だったのである。来年は一体どうなるのだろう。心が寒くなった。

無論その原因はわかりすぎるほどわかっている。遺族の方々の老齢化と死亡である。現に私の母(八十六歳)も、昨年は足腰の弱まりとともに風邪をひき、「家でお参りさせてもらうから」と言って参拝しなかった。いや出来なかったのである。

遺族たち、殊に親にとって、戦死した息子の命日に参拝出来ないとは、どんなに悲しく辛いことであろう。ましてや現在は、靖国神社は、国からも祭祀されておらず、英霊として当然うけるべき礼をもうけていない現状においては、「私が参拝してあげなければ、誰があの子を慰めてあげられるのだろう」という憶いが強烈にあるにおいておや、である。

確に、靖国神社の英霊を憶い、そのみたまにこたえようとする心情には、その人の経験や境遇、立場、事情などの相違によって種々であろうと思われる。

たとえば、子を喪った親の立場、夫、恋人を亡した妻、愛人の心情、父を失った子としての悲哀、或いは戦塵に血汗を泥にまみれさせて倶にした戦友としての無念の痛哭。また更には同じ血をうけた民族、同朋としての一般の人々の感謝、尊敬など、寄せる憶いは種々あるが、しかしその結実するところは一つなのである。それは何か。「どうすれば英霊にこたえられるか」の一語であり、それ以外ありえよう筈もない。

私が、毎年の昇殿参拝に於て、その数の激減ぶりに愕然とし、 「このままで放置しては靖国神社は滅んでしまう」と恐怖を感じ、戦友に申しわけない、と思うその心は、ただに私だけのものではなかった。それは戦死し今は英霊となった彼等と、血と汗を流し泥にまみれて戦場を駆け惨苦を供にした、いわゆる戦友、戦中派世代の大多数の共通、一貫したおもいであったのである。

英霊にこたえるには、先程も述べた如く、結実される目的は一つであるにしても、その立場、境遇、事情等によってそれぞれの道があるはずである。我々は倶に銃を執って戦った戦友として、またあの激烈な時代を供にすごして来た同じ戦中派世代として、何を、どうすればよいのか。どうすれば、英霊を永遠に安んじ、またそのみたまに応えることが出来るのか。

この事を我々 「戦中派の会」の者は熱烈に話しあった。その結果、我々は、あの未曽有にして苛烈な体験の中で、一度は死を覚悟した身ゆえ、その体験、その生きざまを赤裸々に正直に、生きながらに遺言として書き綴り後世に残しておこう、それが生き残った者の使命であり義務であり、且つ靖国の戦友の付託に応える道である、という結論に達し、昨年の八月、六十名の者が筆をとり、「戦中派の遺言」 (櫂書房刊)として上梓し、出来上ると早速に十部を靖国神社へ持参し、英霊の御前に捧げたものであった。

その本の中で各人は、或る者は平和の大切さを説き、また或る者は恋人を慕う如く亡き戦友へ憶いをはせたり、また体験を通じて人間として何が一番大切なのかを語っている。そしてその一つ一つが、説得力があり且つ感動的である。必ずや英霊もお読みになって我々の志を感得してくださったものと自負している。

と同時に我々は、これから二十一世紀にむけて生きてゆく若者にも、また同じ戦中派世代の人々にも、ぜひ一読して頂きたいと強く希求もしている。

ともあれ我々は、今後も、生ある限り靖国の英霊への一体験を忘れずに、こたえるの道を歩みたいと思っている次第である。

 

昭和54年3月1日  英霊にこたえる会たより 第5号

 

祖母のこと

祖母は明治26(1893)年生まれです。

17歳で祖父と結婚し、父を含め8人の子の母でした。

子供の頃、祖母の家に行ったり、家に何日か泊まりに来た時に話をすることがありましたが、小学生でしたので、話が難しくて理解できないことが多かったです。

 

子供の視線に降りてきてくれるタイプにはあまり感じられず、頑固で厳格な印象があります。

いつも和服を着ていて、洋服を着ていたのを見た記憶はありません。

先日、母にそのことを話したら、真夏にはたまにムームーを着ていたということでした。

 

私が祖母の話を多少分かるようになった頃は、祖母はもう80歳を超えていました。

祖母が話していたことで、よく覚えているのは、やっぱりこの言葉です。

「お国の為に戦った人には感謝しなければならない」

 

戦死した伯父は、大正7(1918)年生まれで、昭和19(1944)年に26歳で亡くなりました。

戦死を知ったのは昭和21(1946)年でその時、祖母は53歳でしたが、その時の気持ちは如何ばかりかと思います。

 

今の53歳よりは老いた母の印象ですが、「岸壁の母」の唄をどんな思いで聞いていたのかと思うと、言葉にならないです。

 

祖母は昭和62(1987)年に94歳で亡くなりました。

youtu.be