近代日本の軍楽隊誕生

明治2年9月、薩摩藩士の中から選ばれた30名の若者が鹿児島からイギリス船に乗って神奈川港に上陸、横浜本牧の妙香寺に寄宿した。薩摩藩軍楽伝習生たちである。薩摩藩は諸藩に先駆けて軍楽隊を組織したのである。(薩摩バンド)
軍楽隊といっても肝心の楽器がなく、軍楽伝習生たちは来る日も来る日も号令喇叭と楽譜の学習に明け暮れていたが、隊結成の翌年明治3年6月、待ちに待った楽器一式がロンドンから到着する。
制服を持たない隊員たちは、ザンギリ頭、股引きにわらじ履き、ボタンで留めた羽織を着て腰に刀を差してラッパを吹いていた。そんな奇妙奇天烈なスタイルのまま、さっそくイギリス人教師フェントンの特訓が始まったが、隊員たちは実に熱心に稽古を行い上達も早かったという。
楽長・鎌田真平(26歳)以下、後の海軍軍楽隊初代隊長中村祐庸(すけつね・18歳)、後の陸軍軍楽隊隊長四元義豊(18歳)を含む、12歳から27歳の若者たちの平均年齢は18.5歳。
軍楽隊の教師、ジョン=ウィリアム・フェントンはイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊隊長であったが、毎日レッスンに出張してきてくれたらしい。彼は宮内省雅楽課の楽人たちの授業も受け持っていた。すべての楽器に精通した豊富な知識と、その温厚な性格から、生徒たち皆に敬愛されていたという。(「三つの君が代」)

 

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

アイルランド関係者の間では知る人ぞ知る、このフェントンという人物はアイリッシュです。当時アイルランド島は英国の一部でした。1831年アイルランド南部コーク州キンセール生まれ。
また、薩摩バンドが寄宿した横浜妙香寺は、「日本吹奏楽発祥の地」の碑が立っています。


f:id:nekotower:20171019223602j:plain

myokohji.jp

ペリー来航と軍楽隊

ペリーの最初の日本訪問中、何度か西洋音楽が演奏される機会があった。1853年7月10日の日曜日、サスケハナ号では安息日の礼拝が執り行われ、聖書の朗読と祈祷が捧げられた。
また、フルバンドの伴奏で300人の水夫がアイザック・ワッツの"Old Hundredth"を演奏した。
「明治時代におけるアメリカ音楽の受容」から
ソンドラ・ウィーランド・ハウ Sondra Wieland Howe /佐藤渉(訳)立命館大学 

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_26-1/RitsIILCS_26.1pp.71-78SATO.pdf

 

この曲はプロテスタントの讃美歌のようです。
YouTubeには教会で厳かにパイプオルガンで演奏されていましたが、ペリーの時の雰囲気に近いのはこれかな。
雰囲気を味わうにはちょっと短い(^^;


Band of the Marine Battalion - Old 100th

 

(1853年)7月14日木曜日、楽団が"Hail! Columbia!"を演奏する中、ペリー提督は日本に上陸した。

この曲は初代米国大統領ジョージ・ワシントンの就任式のために作曲され、最初は「大統領のマーチ」という題だった。
1931年に現在の国歌が「星条旗」になるまで、この曲は19世紀のアメリカでは事実上の国歌だったそうです。(Wikipediaほか)

 

大人数のバンドによる演奏がYouTube上には見つからなかったのですが、バンドのマーチは当時の日本人には初めて聞く音楽であったし、メロディーは長調でも威圧的に聞こえたかもしれません。
それだけに、これが効果的であると受け止めた日本人はいたようで、日本の軍楽隊の創設、また日本への西洋音楽の導入にとって大きな出来事だったと言えると思います。


Hail Columbia

 

徳川幕府の末期、諸大名が争ってヨーロッパの軍事を学んだ際、それまでの陣鐘・陣太鼓・法螺貝に代えて新式の鼓笛隊を取り入れる藩が多かったという。しかし、笛・喇叭・小太鼓・大太鼓といった程度の鼓笛隊では、兵役訓練の役にしかたたず、対外的に威信を表し、大がかりな行事を進行するための西洋式吹奏楽を要望する声が関係者の間で高まっていた。特にアメリカ・ペリー提督の艦隊に乗り組んでいた二組の軍楽隊が奏でる演奏を眼前で聞かされた藩の重役たちは、その必要性を強く感じたに違いない。

鼓笛隊に合わせて「宮さん宮さん」を歌いながら、錦旗を掲げながら東海道を行進したのは明治元年(1868年)。

この曲は、作詞・品川弥二郎、作曲・大村益次郎と伝えられている。このようなリズミカルな歌はそれまでの日本には存在しなかった。(「三つの君が代」) 

 


宮さん宮さん

日本の伝統音楽小史(5)歌舞伎・長唄・箏と尺八・和洋における声と楽器

【日本の音楽⑪】歌舞伎

江戸の町は新興都市であったが、江戸城周辺に全国の300近い大名が居を構え、幕府直参の旗本や御家人を含めた武士の数は50万人になったといわれている。
侍たちの生活を支えるため、さらに商人や職人が全国から集まり、江戸の人口は120万人近くに膨れ上がる。
初期の女歌舞伎は挑発的な媚態を演技に加えて人気を博したが、女色をうったとして1629年に禁止された。その後、美少年の演ずる若衆歌舞伎が生まれ、それも女歌舞伎と同様の理由で禁止されたが、女形が女性を演じるという独特の伝統が生じた。
度重なる禁止令によって、却って演者の間に、容姿の美などに頼らず演技力を身に付けようという意識が高まって、歌舞伎に深い演劇性が生まれたと言われている。(「三つの君が代」) 

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

 

傾く(かぶく)という言葉は、新しい傾向を持つ、平衡を失うという意味があるそうですが、それが名前の由来となっているだけって、派手な衣装に見得や舞、そして三味や囃子の音などとても賑やかな様子が、隆興期の江戸中期・元禄時代の江戸文化の華やかさを窺わせるようです。やっぱり、日本伝統文化の頂点はやっぱり江戸時代だったんだろうなあ。
(動画は市川海老蔵の弁慶と市川團十郎の富樫と親子で共演しています)


「勧進帳」ダイジェスト版

 

【日本の音楽⑫】長唄


高い演劇性を目指した歌舞伎で重視されたのが、「長唄」という歌舞伎音楽(劇場音楽)である。
長唄は、短い歌詞を歌っていた地唄(上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽)から派生した長い歌詞を持つ歌である。さまざまな芸能を巧みにアレンジして華麗な音楽を作り上げて江戸町民に愛された。(「三つの君が代」)


江戸時代の邦楽は「語りもの」と「歌いもの」に分けられるそうで、こちらの長唄は「歌いもの」、浄瑠璃は「語りもの」になるということです。
この動画は先ほどの歌舞伎と同じ「勧進帳」です。
曲だけ聞いてても、リズムや音の華やかさがあって、邦楽にあまり馴染みがなくても割と聞きやすいんじゃないかと思います。


長唄 勧進帳 ~滝流し ~

 

【日本の音楽⑬】箏と尺八


九州・久留米の僧侶が中国から箏曲を取り入れ、その流れを汲んだ八橋検校(やつはし けんぎょう)が箏曲を発展させて開祖になった。箏の演奏家は幕府から検校(注 盲官の最高位の名称)という地位を得て特別に保護されたが、やがて、京都では生田流、江戸では山田流となり、箏曲の二大流派は大いに栄えることとなる。
尺八は元来、雅楽の楽器として日本に渡来したが殆ど忘れられていた。しかし、鎌倉中期、中国から新たに尺八が伝えられ、普化(ふけ)宗の虚無僧たちが読経代わりに演奏しながら諸国を歩いたのである。その素朴な音色は人々に好まれて、現在でも民謡伴奏楽器として広く使用されている。(「三つの君が代」)


この動画の「六段の調べ」は、八橋検校の作品。箏、尺八、三弦(三味線)の合奏。曲の構成は一段、二段…、五段、六段となっていて、少しずつテンポが上がり早くなるのですが、ノリノリのリズムを取って弾いてはいけません。この動画ではノリノリにはならず、抑えた感じで演奏されています。

京都のお土産の「八ッ橋」(生じゃない方)お箏の形に似てます。江戸時代に誕生した焼菓子で、形が箏に似ているから(後付けっぽいけど)だと聞いたことがあります。


六段の調(三絃、筝、尺八の合奏です)

 
【和洋における声と楽器の関係】

 

江戸時代、日本伝統音楽は独自の世界を作り上げたが、その殆どが「ウタウ」音楽であったことに特に留意しなければならないと思う。
 西洋音楽では、「声」は「楽器」を模倣している。
 例えば、華やかな技巧を駆使したソプラノの歌など聞くと、それがよくわかる。彼女たちは、まるで華麗なフリュートそのものではないか。自らの体を正確無比な楽器と化して歌を歌うことに駆けているのある。
 一方、日本伝統音楽では、「楽器」が「声」を模倣する。
 日本伝統音楽のウタは、いかに日本語を情感豊かに伝えるかという一点に意識を集中させていて、伴奏の三味線も尺八も、微細に揺れ動く歌の節回しと、その渋みある声色を模倣することに全てを懸けている。そのため、日本の音楽は、音響の重なりの美しさを追求する和音音楽に進化することはなかった。ノドによる言葉の表現を極限まで追求する美感によって成立している日本の音楽は、遂に、西洋のような和音を構築する美学を持つことはなかったのである。(「三つの君が代」)


昔、箏の先生が合唱のコーラスみたいな声で歌っていて、ノドを大きく開いて頭の上から声を出して歌うように教えられたけど、和楽器にコーラスの裏声はとても違和感があって、それでは歌いたくないと思い、かといって何が適切なのかも分からず、結局適当に歌っていたので、本当の地歌(筝曲)の発声法は知らないまま。
この動画は、邦楽での歌い方の(私の)イメージに近いものです。そしてこの「千鳥の曲」はお箏らしくて好きな曲の一つです。


千鳥の曲(Chidori-no-kyoku)-吉沢検校作曲-都山流公刊譜・尺八改訂手付-2016年9月25日-福岡三曲協会

 

『千鳥の曲』は、吉沢検校(よしざわ けんぎょう/二世)が幕末に作曲した筝曲(そうきょく)。本来は胡弓と箏の合奏曲.
古今和歌集』、『金葉和歌集』から千鳥を詠んだ和歌二首を採り歌とし、器楽部である「前弾き」(前奏部)および「手事」(歌と歌に挟まれた、楽器だけの長い間奏部)を加えて作曲したもので、吉沢自身が考案した「古今調子」という、雅楽の箏の調弦、音階を取り入れた新たな箏の調弦法が使われている。
塩の山 差出の磯に 住む千鳥 
君が御代をば 八千代とぞ鳴く
古今和歌集』より 詠み人知らず
淡路島 通う千鳥の 鳴く声に 
幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
『金葉集』より源兼昌(みなもと の かねまさ)作
「差出の磯(さしでのいそ)」とは、山梨県山梨市の中心部、笛吹川沿い位置する景勝地のこと。笛吹川側から見ると突き出て(差し出て)おり、内陸部にありながら海辺の磯のように見えるところから「差出の磯」と名付けられた。

世界の民謡・童謡「千鳥の曲 筝曲」

http:// http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/chidori.htm

日本の伝統音楽小史(4)能・三味線・人形浄瑠璃・義太夫節

 【日本の音楽⑧】能


伝来音楽の散楽・猿楽が「猿楽能」へ発展し、郷土芸能の「田楽」が「田楽能」へ発展して、さらに「田楽能」に発展して、さらにその二つから「能」が形成されたのである。(「三つの君が代」) 

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

1375年、足利義満は、京都の今熊野社(※新熊野神社)で演じられた観阿弥世阿弥親子の能に感激、重要な支援者となる。
この動画では「猿楽能」と紹介されています。演者は能楽師ではないけど、そのルーツという感じがします。でも台本かあらすじがほしい( ;∀;)


Noh Nogaku 申楽(猿楽) 京都・新熊野神社 - 能楽発祥の地

 

【日本の音楽】<番外編>

安土桃山時代に「三味線」という日本固有の楽器が誕生した。
中国から琉球を経て輸入された「三弦」という楽器に目を付けた琵琶法師たちが、蛇皮の代わりに犬猫の皮を張って、高価な琵琶の代替品としたのである。
三味線は安価な製作費と簡単な演奏法によって、またたく間に日本全国に行き渡る。各人の声に合わせて音の高さを自由に調弦できることも便利であったが、何よりも、その大きな音量と張りのある渋い音色が日本人の好みに合ったようだ。
やがて三味線は、浄瑠璃長唄などのほか、日本伝統音楽のあらゆるジャンルの伴奏楽器として最も重要な楽器となったのである。(「三つの君が代」)


江戸時代には、三味線を(ギターみたいに)カッコよく弾く青年がいて、腕を競ったり、町娘にもてたり、っていうのが絶対あったに違いない、と子供のころから思ってて、お囃子で聞くような派手な三味線の音が好きです。
三味線もいろいろな種類があり、竿の種類(太さ)や皮の作り方、撥の形状によって音色や奏法が違う。こうして聞き比べると面白い。左から津軽三味線地歌三味線、長唄三味線。



津軽、地唄、長唄三味線による三重奏・能楽堂にて

 

【日本の音楽⑨】人形浄瑠璃


江戸時代の前半期は大阪や京都などの上方文化が発展。
商業都市・大阪では1684年、竹本義太夫が道頓堀の劇場で初めて義太夫節を語って大ヒット。
以後、義太夫近松門左衛門と組んで『曽根崎心中』『心中天の網島』などの名作を次々と発表。なかでも『国性爺合戦』は三年間の大ロングランとなる。(「三つの君が代」)


文楽は3年前~2年前くらいにハマってよく観に行っていました。大夫(浄瑠璃語り)、三味線弾き、人形遣いが一つになって作り上げている形、人形の繊細なしぐさ、場面場面で変わる大夫の語り、三味線の表情豊かな音色…ウットリして見入っていました。


文楽「義経千本桜」より二段目「伏見稲荷の段」

 
【日本の音楽⑩】義太夫節

西洋のオペラが、演技を離れて、演奏会用オペラとしても演奏されるように、本来劇場音楽として作られた曲でも、劇場に関係なく(そして舞踊などとも無関係に)演奏されることが多い。それらを素浄瑠璃ということがある。(「日本の音楽 歴史と理論」吉川英史) 

 
これは文楽を初めて観たときに一番印象に残った演目。文楽人形が演奏と語りに合わせて琴や胡弓を演奏する様子がとても繊細で美しく、しかも、この動画とは違い、三者の距離がもっとあった中での一体感のある舞台に圧倒され、シビレました。

 


素浄瑠璃 「壇浦兜軍記」 阿古屋琴責の段 5

日本の伝統音楽小史(3)平曲・猿楽・田楽

【日本の音楽⑤】平曲

鎌倉時代、新たな権力を獲得した武士、民衆を味方にした僧侶、伝統の上にわずかに力を残した貴族の三者によって歴史の歯車が回された。
そのような時代に、権力闘争と無上の世相を描写した軍記物語が現れ、中でも「平家物語」が人々に強い共感を与えたのである。
文字を読むことのできない盲目の琵琶法師によって伝えられた。
平曲はその後の謡曲浄瑠璃にも多大な影響を与えて、日本伝統音楽の最も大きな節目を作ったといってよいだろう。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の世の夢のごとし。
猛き者もついには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
琵琶法師たちは、それまでの歌にはない、鋭角の言葉を多用した。上の文のように「シャ・シュ・ショ」「ジャ・ジュ・ジョ」などの拗濁音(ようだくおん)を駆使して音響効果を高め、物語を演出したのである。(「三つの君が代」)

 

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

 

今聞いてみると、意外と聞きやすい。
音節を一つ一つ伸ばす節回しはあっても、言葉と琵琶の音が交互に繰り広げられるせいか。
琵琶の音色と、このような語りで平家物語の世界が聞く者の心を揺さぶり、当時の人々が好んで広く聞かれていたのは、時を経て、今ここでこの節を聞いただけでも、そうだろうと感じられる、感性が脈々と続いているのを確信します。


平家琵琶(平曲)祇園精舎その1/館山甲午

 

【日本の音楽⑥】猿楽

鎌倉時代に「能」が起こる前、奈良時代に中国から伝わった「散楽」という曲芸や記述、歌病を伴った芸術があった。雅楽とともに宮中で行われていたが、のちに市中に出た。
「猿楽」は伎楽や散楽をルーツとして、滑稽な物真似芸(現代と違い、亀やカニ、昆虫などの真似)が民衆の人気を集めるようになった。(「三つの君が代」ほか)
これは「能」より「狂言」のルーツに近いのかな?という気がします。
ネットで探すと猿楽は、滋賀県多賀神社の万燈祭のものがヒットするけど、90年代に復興して続けているものの、そのエッセンスは伝わってくる感じがします。


多賀大社万燈祭2015 「近江猿楽多賀座」そのー1

 

【日本の音楽⑦】田楽


田楽は、田に関する行事から生まれ、奈良時代の671年、「田楽の舞」が初めて宮中で行われたという記録がある。
当初、田植えの労働のための笛や腰鼓やササラなどを使った群舞であったが、後には「田楽法師」のような専門家が現れ、市中で群舞とともに竹馬のような高い棒に乗って(「豆腐田楽」の由来)、曲芸を行った。(「三つの君が代」)
和歌山県那智の田楽は、大正期に復興され、現代まで受け継がれているそうです。動きが定型化しているけど、素朴さも残っていて、ナレーションが土地の訛りなのがいいです笑


那智の田楽

日本の伝統音楽小史(2)伎楽・雅楽・声明・今様

【日本の音楽①】伎楽(きがく)

一番古い記録では5世紀に大陸から伝来したそうです。
またそれとは別に、「伎楽」という仮面音楽舞踏劇も伝わり、呉舞ともいわれ、長江下流の呉(中国長江下流域)から伝わったとされ、今も毎年薬師寺で伎楽の奉納が行われています(平成4年から復興した)。この中に獅子が出てきますが、獅子舞の原型とも言われているとか。
とても素朴でのどかな感じが奈良っぽい(^-^)。

平城京 | キャンペーン | うましうるわし奈良 | JR東海 -日本最古の仮面劇- 伎楽とはなんぞや?

http:// http://nara.jr-central.co.jp/campaign/heijyokyo/special/gigaku.html

 

【日本の音楽②】雅楽

8世紀(奈良時代)には、「雅楽寮(うたまいのつかさ)」が701年に創設され、「和楽」のほか唐楽、三韓楽(朝鮮半島)、伎楽、ベトナム、タイの音楽などが学習されていたが、30年ほど過ぎたら「和楽」は縮小され、外来音楽(唐楽を中心にしたもの)が中心になったらしい。
優れた外国音楽が土着の音楽を圧倒し、駆逐する現象は明治維新のはるか昔にも行われていた。(内藤孝敏著「三つの君が代」) 

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

 
日本人はやっぱり基本的には新し物好きなんでしょうかね。
動画の楽器は、篳篥(ひちりき)、笙、龍笛の管楽器、弦楽器は、筝、琵琶、打楽器は羯鼓(かっこ)(小さい横置きの鼓型)、太鼓(銅鑼大)、鉦鼓(しょうこ、鐘のような音色)


管絃 壱越調 春鶯囀遊聲 Kangen Ichikotsucho Shun-noden no Yusei

【日本の音楽③】声明

736年、インドのバラモン僧が仏教儀式音楽「声明(しょうみょう)」を伝えた。これは宗教だけでなく、日本の音楽にとっても非常に大きな出来事であった。日本仏教サンスクリット語や中国語を正式な声明としていたが、次第に日本語を使って歌うようになり、それが様々な形で日本の芸能に影響を与えるようになったのである。(「三つの君が代」)
その前の時代の雅楽とは趣が違い、歌の節回しという意味では、文楽で聞くものに近く、それに通じるものを感じます(*^-^*)


【声明】 高野山真言宗 「理趣経」 中曲 合殺 於:神戸・西室院

 

【日本の音楽④】今様

平安末期、後白河法皇は歌をとても好み「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」(優れた声の響きが建物の梁の塵を落とした、という中国の故事に因む)という今様(いまよう)を編纂。ここでいう歌は和歌のような詠む歌ではなく、歌うための歌。(「三つの君が代」)


「舞へ舞へ蝸牛  舞はぬものならば 

馬の子や牛の子に蹴ゑさせてむ 踏み破らせてむ 

実に美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせむ 」

(かたつむり舞いなさい、舞いなさい。舞わないのなら、馬の子や牛の子に蹴らせようか。踏み割らせようか。ちゃんと可愛らしく舞ったなら、きれいな花の庭に連れていって遊ばせてあげる)


「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、

遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」
(遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。
遊んでいる子供の声を聴いていると、感動のために私の身体さえも動いてしまう。)


などが有名らしいですが、今読むと新鮮だけど、前からあったような懐かしい、小さな者への眼差しが細やかで愛情を感じる歌です。
動画の歌の節回しは当時のものではなく、オリジナルのようです(^^;

 


【初音ミク】遊びをせんとや生れけむ【梁塵秘抄】

日本の伝統音楽小史(1)

海外の伝統音楽を聴いていると、現代ポップスに通じる連綿とした繋がりを多少なりとも感じるけれど、日本の伝統音楽って何かと考えると、明らかに西洋音楽とは音階が違っている、民謡や演歌や浪曲の節回しのようなイメージで、現代のいわゆるJ-Popからはかなり遠く、忘れ去られようとしている気がする。

日本の伝統音楽は、確かに良いと思うのだけど、聞いてると眠くなったり、退屈に感じることがある(感性の問題?)。

だけど、明治初期の文明開化に燃えた人たちが、いとも簡単に日本の伝統音楽から西洋音楽を取り入れることに乗り換えたのは、西洋に認められようとしていたとはいえ、とっても残念。

そんな私自身もすっかり西洋音楽に馴染み、親しみを感じてる。

「このような「単調で不調和で粗雑で金切り声のギーギーキーキーした歌や、ピアノの調律のような一本調子の琴」といった外国人の評価を耳にして、文明人気取りの明治の政治家や官僚たちが日本伝統音楽を捨てようとしたのは当然かもしれない。
西洋音楽は、その作品・理論・楽器・演奏法・合奏法・教育法、どれをとってみても圧倒的に優れていて、日本伝統音楽とは比較にならなかったのである。しかも、1868年頃の西洋音楽は、その歴史の中で最も充実した時代を迎えていた。

明治元年における西洋大作曲家たち>
ベートーベン没後41年、ショパン没後19年、シューマン没後12年。
(当時存命の作曲家↓)
ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーブルックナーヨハン・シュトラウスブラームスサンサーンスビゼーチャイコフスキードヴォルザークフォーレ
(中略)文明開化の日本に音立てて一気に流入してきた明治元年西洋音楽は、このような天才作曲家たちが綺羅星のごとく並ぶ音楽史上最も輝かしい時代だったのである。」(「三つの君が代内藤孝敏著 から引用)


だけど、確かにこのような顔ぶれの人たちによる音楽は、あまりにもまばゆく、輝きを放ち、マイナー音階の日本伝統音楽は、その輝きによって霞み見えなくなってしまうほどだったのかもしれない。
だけど、そうは簡単に日本伝統音楽を消し去ることはなかったし、とどまり続けている。
音楽は風土と生活と言葉がその土地の人に深く関わっているものだと思うし、日本人は西洋人とは違うものが血肉となっているから、日本人の要素を持ち続けたまま、西洋文明と向き合うしかないし、そうでないと「あんた誰?」ということになってしまう。

 

その辺りのことを少し掘り下げれば、今との繋がり、または隔絶している様が感じられるような気がするので、この本を少し読み進めてみようと思う。

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層