陸軍那須野飛行場跡へ

昨日の記事で、那須野陸軍飛行場格納庫跡が先月解体された、という記事を紹介しました。 

nekorin.hatenablog.com

昨年、ここを訪ねたので、その時の記録を記します。

戦死した伯父の戦歴にここにいた記録があり、しかも内地にいたのはここだけのようなので、どうしても来てみたかったので尋ねました。

訪ねる前にネットで調べてみると、ここを訪ねた人はやはりいて、詳しくレポートしてあったのでプリントアウトして、グーグルマップをお供に訪ねました。

こちらのサイトを参考にしました。

埼玉飛行場跡地を行く(その1)

消え行く史跡 〜埼玉飛行場跡地〜(その1)

airfield-search2.blog.so-net.ne.jp

大刀洗や萬世飛行場跡のように保存している場所ではないので、その荒廃ぶりに悲しくなりましたが、知人を真似て靖國神社の御神酒を少しずつ振り掛けて手を合わせました。

那須(黒磯)の向こうに雪がうっすら残る山が見えたり、大きな木々を見て、この木は当時からあったのか、伯父もこの木を見たことがあっただろうか?などと思いながら、ほの涼しい夕方の風を感じていました。

ここは昭和17年熊谷陸軍飛行学校那須野分教所として開校。
伯父がいたのはこの頃。
昭和20年には空襲があり、その後8月13日には6機特攻出撃した記録があります。

ここに飛行場があったと示すただ一つの記念碑の碑文を以下貼り付けます。

『日支事変から第二次世界大戦に突入した日本陸軍は飛行操縦将兵の早期養成に迫られこの地に昭和十三年から三年の歳月をかけて面積約二百八十ヘクタールの飛行場を完成した。爾来、熊谷および宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊として下士官、特別操縦見習仕官、少年飛行兵等の操縦学生が猛訓練を繰り返し、卒業後はつぎつぎと第一線へ配属されていった。

戦況熾烈となった昭和二十年四月茨城県より鉾田教育飛行師団が移駐して実戦部隊となり、双襲双軽爆撃機による特攻機の訓練基地として○○神鷲隊十二隊が編成され、うち二隊は終戦直前、岩手及び鹿島東方洋上に特攻散華せられた。七月、八月には敵艦載機の来襲を受け将兵並びに付近住民多数の戦死傷者を出し、また飛行場開設以来猛訓練に依り幾多有為の士が殉職せられた。

その門防衛整備にあたった軍人軍属、近隣から動員された老少婦女子を含む各種奉仕隊も共に祖国の勝利を念じつつ辛酸を分かち合ったのである。時代の流れは刻々にかつての面影を消し去ってゆく。幸い今日まで生を得たわれ等当時の関係者は世界の平和と日本民族永遠の繁栄とを祈りこの地に記念碑を建立する。願わくばここを巣立ちここに戦死せられた人々の霊の安からんことを。
 昭和五十三年十一月五日建立 撰文 月江冨治郎』

この碑文を記した、月江冨治郎氏は当時の栃木県黒磯市長。黒磯市は平成17(2005)年に塩原町と合併し、那須塩原市となっています。
このような碑文は、当時を知り、肌で感じた人が記したに違いないと思わせる凄みや重みを感じます。現代の我々には書けないだろう。
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ここが那須分教所の正門があった場所。右側は埼玉(さきたま)小学校。

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「旧埼玉飛行所見取図 総面積約380町歩」
見取図が書いてあって、戦跡として訪ねた人は皆これを頼りに辿ったと思われます。
というか、これがないと何が何やら状態です。
※380町歩≒3762000平方メートル
甲子園球場は39600 平方メートルなので、約95個分。

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ここ一帯が飛行場後であったことを示す唯一のものである石碑。
当時を知る人も、この石碑が立った当時を知る人も少なくなってきているのだろう。

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陸軍那須野飛行所跡の石碑と見取図の石碑。 

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地図で見ると、格納庫があったあたり。
私有地かもしれなかったけれど、お邪魔させてもらってみると、このようなものが10基くらい並んで残っていた。ボルトが付いていたけど何だろう?(平成30(2018)年1月に解体されています)

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鬱蒼としており、画面で見ると右の方にもこの礎石のようなものが並んで立っていました。(平成30(2018)年1月に解体されています)

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さっきの格納庫跡の向かい側。飛行場のアスファルトがそのまま残っているように見える。奥の方には「駐車場」の看板が見えた。

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山は当時も今も同じように聳えていたのだろう、伯父もこの風景を見ていたのだろうか。

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地図によると、ここが2本あった滑走路のうちの1本があった場所。
これを挟んで左右に家が建っている。それにしてもずいぶん荒れています。

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こちらは2つあったうちのもう1本の滑走路跡。普通に生活道路になっていました。

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五月の空は美しい。
あの山もここにいた人たちをずっと見てきたのだと感慨深い。