これがないと!なもの ”サードプレイス”

子供のころから、家と学校の生活だけだと息苦しさを感じていた。

どちらも居場所ではない!という感覚。

習い事の先生にいつもいろんな話を聞いてもらっていて、今にして思えば、それがあったからその先の日常が生きられる、という場所であり、先生との関係だった。

 

就職してからもそれは変わらなくて、家と職場の往復だけでは息苦しかった。

職場の同僚と飲みに行くのは嫌だった。話すことといえば職場のこと。うんざり。

仕事以外の時間は友人たちと好きなことをして過ごしたい。その対象に同僚はいなかった。

社会人生活も長くなると、それほど同僚を忌避することはなくなったけど、家と職場だけの生活では、何のために生きてるのか分からないほど考えられない。

 

どんだけ家庭や仕事を嫌がってるんだと見ることもできるけれど、食べるため、生活を整え心地よくなるためや、稼ぐため、仕事にやりがいを感じるためだけに生きているのではないと言いたい。それプラスのものがあってこそ、生きていけるという感覚。

それは音楽が好きな私にとってはライブに行くことであったり、自宅で演奏することだったり、仲間と演奏を楽しむことであったりする。

それを通じて五感で味わうこと、それを分かち合うことが生き生きとさせてくれる。

ある人にとってはそれが別の何かであって、特に珍しくはないかもしれないが。

そんな風に生きてきたので、この動画は刺さりました。

 

「批判覚悟!社交を失いニヒリズムに陥る専門人たち」


www.youtube.com

浜崎洋介先生は文芸批評家。雑誌「表現者クライテリオン」編集委員

 

この動画では、2021年9月号から紐解いて話しています。

the-criterion.jp

この雑誌は読んでいないので、取り上げられている記事の詳細は知らないです。

 

2020年コロナで専門家の方の

「42万人死亡説」

www.asahi.com

「8割自粛」

www3.nhk.or.jp

などが社会を席巻するなどし、自粛が始まりました。

ここでは何のために生きているのか(死生観)が問われていて、今回の感染症は毒性がどの程度なのか、生きる喜びや躍動を止める、自粛に値する感染症かの議論をすることへの批判があったと言います。

記事を紹介しつつ、生きていることそれ自体に価値を見出す(生命至上主義・長生き至上主義)はニヒリズム虚無主義)であるという指摘や、医療ビジネス(長生きをさせることで儲かる医療)、医療においても明治以来の西欧主義の悪弊などについての話があり。

 

ここから、最初に書いた個人的な感覚と結びついた話。

 

「サードプレイス」 社交 について

ファーストプレイス 家庭

セカンドプレイス  職場

それぞれ家庭・職場での役割があり、意味という世界にとらわれて息が苦しい。

サードプレイス  社交の場

役割から外れて、1人の人間として社交する楽しさ

狭い視野が外れ、自由に議論できる

生きている、現場にいる手応えを感じる場所。

ここが自粛によってつぶされた場所。

 

どれだけ危険な感染症かは個人的には不明だった。

人が亡くなることは大きな悲しみを生むことではあるけれど、人はいつか、誰でも必ず亡くなる。なのに、何故この感染症で亡くなることは他の原因で亡くなることと比べて特別であるかのように扱われるのか、理解できなかった。

エンタテイメントや飲食店関係者が仕事がキャンセルになったことの方が、理不尽に感じた。

そういったことで楽しさや美しさや明日への活力をもらってきたことを感じていたから、皆が不安になっている時だからこそ、その力が、自分にも、人々にも、社会にも、必要なはずだと思った。

彼ら自身もおそらく、こういう時だからこそ、自分たちの出番だと、人々のために何かしたいと思っていたのではないか。

そういう場所や機会が無くなることが嫌だった。

粛々と在宅ワークしたり、自粛生活を送るだけでは、仮面のような人間、生きものになってしまう気がした。生きてて楽しいのか?それで生きているといえるのか?という思い。

 

浜崎洋介先生の言う「社交の場」は、それを超えたものがその先にあると指摘していると感じた。

 

社交の場で一人の人間として、様々な立場や年齢の人と交流し、議論をすることで、私的なエゴイズム(身を立てるための家庭や労働)を超える。

そこで手ごたえを得て、自信を持って、もっとパブリックな場所へ持っていく。

その議論の積み上げの最初がサードプレイス。

 

動画では「ニュータウン」についても触れられた。

 

そこでは別の街で働く大人が消費をし、寝に帰る。

消費を超えた人とのかかわりー祭り、飲み屋、町で働く人たち、場末がそこにはない。

その街で育つ子供たちには、昼間に大人を見る場所・チャンスがない。

大人が何かがわからない。

大人とは大卒の両親ややはり大卒で教師になった学校の先生ばかり。

大人になるとは、大学に行くことが必須のように思ってしまいがち。

地元の街なら、祭りがあり、家業を営む人たちがいたり、偏差値からあぶれても、いろんな人や、いろいろな生きる場所(=逃げ場)があるという感覚を培うことができる。

ニュータウンではそれが困難。

 

個人的にマンモス団地育ちのため、その感覚はよく分かる。

同じ団地の友達よりも、商店をやっている家の友達の方が、ご両親の顔も姿もハッキリしていて、不思議な安心感があった。

団地の人たちは、大人も地域に関わることはそんなになくて、地域のお祭りも団地のものだった。地元のお祭りではなかった。でも団地の子供たちは、お祭りといえばそれしか知らない。

大人になってから住んだ町で地元のお祭りを知って、人の営みが地元の町と一体になっているのを始めて感じた。

その街で働いて、生活がともにあることがとても大切だと今思う。

子供のころ、学校の先生と両親だけではない大人が私にはいたから、居場所を得る時間と場所があった。何気ないことだけど、それは救いになっていて、有り難いことだったと感じる。

ここでいう、祭りや場末のようなものが「サードプレイス」であり、こうした角度から見ると、誰にとっても大切な場所なのだと思える。

 

人が生きるとは何か?

生きる喜びのために人は生きているのではないか。

そもそも生活を守るための自粛ではなかったか。

生活のバランスは自粛によって崩れていないか?

(サードプレイスを含めた)生活を守りたい、と言えない社会はおかしくないか?

しかし、仕事の現場でそれを感じてても表立って言えない人々が社会にはいる。

であれば、言論人はそれを自由に言うべきだし、それを言うことが仕事だから言っていいと思っている。

 

この動画は流し見して、ぴぴっと来て、いいなと思っていたけど、とても大切なことを言っていると思って見返した。

言葉を拾ってるだけだと、一番コアなところが逃げていってしまう感覚があり、話を聞く姿勢も、こういうことを身に着けることとセットになっていると実感した。

サードプレイス、私にも必要だと痛感します。

 

気になった方はぜひ動画を見てみてください。