「悪魔の碾き臼」としての資本主義 

森永康平さんと浜崎洋介さんの対談動画のその2。

こちらもたいへん面白かったです。


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森永康平さんが、まさかの文学少年カミングアウト。

百人一首大会出禁、国語の偏差値90超え、中学生の頃にカール・ポランニーの「大転換」を読んだなどなど、驚きのエピソード!

 

前回の動画で、空気拘束主義の日本人論を展開した浜崎洋介さんですが、そこでは、目の前の他者を包括できる文脈(地)を喪失した人々が、目先の利益、その場の空気だけで動くことを解き明かしていました。

 

そして、今回そこからの手引きとして、そのカール・ポランニー「大転換」からの論考を紹介しています。

 

1944年に著された「大転換」は、カール・ポランニーが生きた時代、

産業革命での労働者の奴隷化

②植民地の利潤追求に伴う経済拡大、軍拡、第一次大戦

③株式市場の暴走、世界恐慌ファシズム

を背景にしています。

 

ポランニーのいう「自己調整型資本主義」は今でいう市場主義経済を指すかと思われますが、そこで生活世界の解体が進み、「悪魔の碾き臼としての資本主義」と指摘しています。

 

それまでは社会の中に経済が埋め込まれていたが、資本主義が表に出てくることで、社会が経済の中に埋め込まれてしまった。

 

世の中には市場には馴染まないものがある。

文化的制度や人々の暮らす住処を包括する土地、その人々が働くこと、人生ともいえる労働、そしてそれらを維持し、守る国家による貨幣。

 

すべてを市場に任せるのではないし、有用性があるかないかだけで判断すべきものではない。

 

資本主義が出てきたことにより、従来商品でないもの、商品化に適さないものが商品となり、擬制的に虚構を流通させることが危険と指摘。

 

市場メカニズムに人間の運命と自然環境の唯一の支配者になることを許す仕組みの危険性。

そもそも、人間、土地、貨幣は市場経済の前提となるもの。

 

自由な交換(経済)の為には、交換できないもの、蝶つがいが必要。

長期スパン(マクロ)で見られないから、国家理性が破綻している。

 

古典を読むことで、貨幣論の背後の国家、その背後にある土地や人間が見えてくる。

 

 

これらの論考を聞いて思うのは、やはりマクロやミクロの視点を認識することの大切さです。

時系列的に歴史を辿って見たり、現在に当てはめたりすることで、視野が広がる。

その当時を知ることで理解や共感が深まる。

 

そして、人間の社会生活のもとには、必ずその土地、風土があり、それなしには人は生活は営めないし、生き生きと生きることは難しいだろうということ。

生き生きとした人々が生きる場所としての土地。ふるさとと言っていい。

ふるさとなしで平気な人っているのか?

そこへ手を加えることに人々は畏敬を持っていいし、愛着を素朴に素直に示していいと思う。

 

どう生きるか、ということを考える時、心の問題だけだと足下がおぼつかないのは、歴史や土地、そういったものがない認識の時なのだろう、と確信します。

 

日本語ですら、商品化するようなことであれば、日本人の我々が引き裂かれるような気持ちになる。

 

すべてを市場に任せて、今ここのにんじんが手に入ることばかりに一喜一憂して生きるなんて、真っ平ごめん。

 

人間らしく生きるなら、違和感や直感に素直になることや、そのことを生き生きと論じてみたり、自分を守るものに思いを馳せ、感謝を伝えたり、土地の風に吹かれたり、食べ物をしみじみ味わったりしていたい。

そのためには、人としっかり交流、表現者クライテリオンの先生方のいうところの「交際」をして、大切な思いを分かち合うことが、それをさらに促してくれることと思う。