遺族や戦友の思い

私の祖父は、明治の終わり頃に徳島から上京して来たのですが、詳細がわからなくて、3年くらい前、家系図調査をしていた時がありました。

そこには、伯父が戦死した日と場所がフィリピン上空であると書かれていました。

その頃、ネットを見ていたら戦死した伯父のすぐ下の弟にあたる伯父が記していた文章を見つけました。

 

これを読んで、我が子を戦争で亡くした親やその兄弟姉妹、戦友といった人達の英霊への思い、そして、過ぎて行く年月とともに彼等の存在や戦争の記憶や、何よりも彼等自身の思いが流され、忘れられてしまうことを憂い、恐れていたことを強く感じました。

 

今を生きる私にはない、切実な思いを知って、それに思い至らない自分に愕然。

同時にそれに少しでも近付きたいという思いもふつふつとして来ました。

 

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冒頭から私事で恐縮ですが、私の次兄は陸軍の航空操縦員でヒリッピン沖で特攻戦死をしていて、その命日が十二月十八日である。

ここ十七年来、私はその日、母と倶に靖国神社へ行き、昇殿参拝をさせていただいている。十七年前はじめて靖国神社から通知をいただいて参拝した時は、およそ百名ばかりの遺族の方々がお集りになっていた。主にご両親が多く、妻子の方々はごく少数であったようだ。戦死した人が年若く、ほとんど独身であったろうから、これは当然であろう、とその時思ったことを記憶している。

それから毎年母と供に昇殿参拝をさせていただいて、私はその度に深く悲しみに沈まないことはなかった。それは、毎年の如く参拝者の数が激減してゆくからである。その激減ぶりは正に櫛の歯が欠けてゆく如くであった。一年に一割などというものではなく、二割、三割ずつという具合であった。そして私は、昨年に至って愕然たるものを憶えた。なんと私たち兄弟を入れてたったの八名だったのである。来年は一体どうなるのだろう。心が寒くなった。

無論その原因はわかりすぎるほどわかっている。遺族の方々の老齢化と死亡である。現に私の母(八十六歳)も、昨年は足腰の弱まりとともに風邪をひき、「家でお参りさせてもらうから」と言って参拝しなかった。いや出来なかったのである。

遺族たち、殊に親にとって、戦死した息子の命日に参拝出来ないとは、どんなに悲しく辛いことであろう。ましてや現在は、靖国神社は、国からも祭祀されておらず、英霊として当然うけるべき礼をもうけていない現状においては、「私が参拝してあげなければ、誰があの子を慰めてあげられるのだろう」という憶いが強烈にあるにおいておや、である。

確に、靖国神社の英霊を憶い、そのみたまにこたえようとする心情には、その人の経験や境遇、立場、事情などの相違によって種々であろうと思われる。

たとえば、子を喪った親の立場、夫、恋人を亡した妻、愛人の心情、父を失った子としての悲哀、或いは戦塵に血汗を泥にまみれさせて倶にした戦友としての無念の痛哭。また更には同じ血をうけた民族、同朋としての一般の人々の感謝、尊敬など、寄せる憶いは種々あるが、しかしその結実するところは一つなのである。それは何か。「どうすれば英霊にこたえられるか」の一語であり、それ以外ありえよう筈もない。

私が、毎年の昇殿参拝に於て、その数の激減ぶりに愕然とし、 「このままで放置しては靖国神社は滅んでしまう」と恐怖を感じ、戦友に申しわけない、と思うその心は、ただに私だけのものではなかった。それは戦死し今は英霊となった彼等と、血と汗を流し泥にまみれて戦場を駆け惨苦を供にした、いわゆる戦友、戦中派世代の大多数の共通、一貫したおもいであったのである。

英霊にこたえるには、先程も述べた如く、結実される目的は一つであるにしても、その立場、境遇、事情等によってそれぞれの道があるはずである。我々は倶に銃を執って戦った戦友として、またあの激烈な時代を供にすごして来た同じ戦中派世代として、何を、どうすればよいのか。どうすれば、英霊を永遠に安んじ、またそのみたまに応えることが出来るのか。

この事を我々 「戦中派の会」の者は熱烈に話しあった。その結果、我々は、あの未曽有にして苛烈な体験の中で、一度は死を覚悟した身ゆえ、その体験、その生きざまを赤裸々に正直に、生きながらに遺言として書き綴り後世に残しておこう、それが生き残った者の使命であり義務であり、且つ靖国の戦友の付託に応える道である、という結論に達し、昨年の八月、六十名の者が筆をとり、「戦中派の遺言」 (櫂書房刊)として上梓し、出来上ると早速に十部を靖国神社へ持参し、英霊の御前に捧げたものであった。

その本の中で各人は、或る者は平和の大切さを説き、また或る者は恋人を慕う如く亡き戦友へ憶いをはせたり、また体験を通じて人間として何が一番大切なのかを語っている。そしてその一つ一つが、説得力があり且つ感動的である。必ずや英霊もお読みになって我々の志を感得してくださったものと自負している。

と同時に我々は、これから二十一世紀にむけて生きてゆく若者にも、また同じ戦中派世代の人々にも、ぜひ一読して頂きたいと強く希求もしている。

ともあれ我々は、今後も、生ある限り靖国の英霊への一体験を忘れずに、こたえるの道を歩みたいと思っている次第である。

 

昭和54年3月1日  英霊にこたえる会たより 第5号