深い教養へ至る身体性

こういうお話がめちゃくちゃ好きです。


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宗教という、たぶん多くの日本人には向き合いにくい問題について、きめ細やかな思考と多角的な観察眼を通して言語化されていることに驚くとともに、単純にすごく深い話への展開に感じ入ってました。
 
こういうお話をしたり、聞いて深い理解をするには、知識以上に教養が求められるなと思う。
教養だけでなく、常識的なバランス、そういったもがの話者の中にあるのを感じます。
 
藤井先生もそうですが、西部邁先生からの表現者の先生方には、古典などを紐解いたお話しがしばしば登場して、読書が苦手な私には先生方のお話しからその断片を聞いて知るのみです。
 
この動画の中では、具体的な古典や思想家の名前や言葉を引いてはいないのですが、お話しの中にそれが裏打ちされているように感じます。
しかも、(ラジオ番組のリスナーが視聴者の多くであることからも)そういうことを知らない人であっても、理解できるような話をしているように感じます。
難しい古典とがっぷり四つで読むことをずっと避けてますが、古典を読み、理解することは社会だけでなく人間を考え、その理の重要さを血肉にすることがより善く生きる根っこにあると感じます。
やっぱり古典に触れて我がこととして理解することはとっても大切なんだな。
 
頭が優秀なだけでは足りなくて、身体の感覚、深いところで理解しているイメージ。
そのことと今も勉強している東洋思想(自然思想)との繋がりを感じ取れたら、個人的にはめちゃくちゃ幸せです。
 
ニュース解説の小ネタではない深いお話です。

「若さは人を信頼する力」

浜崎洋介先生の出演動画からのメモ

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浜崎洋介先生㉜】若者・学生との向き合い方1 社会システム


「子は親を救うために病になる」の本から

生命システム 
心理システム

脳神経を減らして社会に適応する→心理システム
生命システムとの矛盾が大きいと生きるのが辛くなる

生命システムに耳を傾けて無理のないように心理システムを作る

青年期は、社会へ適応するため、また経験不足のため心理システムに寄る

心理システムに適応しすぎると、生命システムの波動が聞こえなくなる
真面目な人ほど、心理システムに生命システムを譲る
譲ったことに痛々しい思いを抱えている
生命の欲動があることを青年に働きかけると、生命システムが動き出す

30代前半で生命システムが死んでしまう人が半分くらい。40代くらいだとほとんど。

ニヒリズム、ゾンビ的な人間→心理システムに譲りすぎる

福田恒存
「若さは人を信頼する力」

信頼とは死を恐れない
今自分の生命が躍動するから、それで失敗してもいいと思える
信頼感を持つ人間を若さと言える
年齢は関係ないが、そのような人間は一握り
年代が上がるにつれてそういう人間はいなくなる
だから若者を大事にしないといけない
心理システムに絡め取られていない若者を生命システムに寄せて、信頼できる大人がいることを説得する必要がある。


今回も熱い浜崎洋介先生。
不真面目な人間はただゾンビのようになっていく。
当たり前に生きることは誠実であり、体感覚、躍動感、活力の大切さを示してくれる。
そして、若者たちの話を聞き、向き合う時間こそが、信頼感を醸成することへいちばん働きかける、と語る浜崎洋介先生が眩しい。

7月8日のこと

この日は、人に会う予定がもともとありました。

折しも、その日の昼間に日本中に大きな衝撃のあるニュースが流れて、なかなかピンと来ず、大したことないんじゃね?と思っていました。

道中の車内で雑誌を読んでいたら、昭和初期の不況と軍隊の台頭、そして政府の要人の暗殺が続いたことなどがたまたまテーマだったこともあり、心のムードはそちらへ引っ張られているのを感じていました。

こんな時はあまりそういう情報に触れると心身に来ます、というのも聞いてた。

だけど無関心ではいられなくて、でも情報を探っても仕方ないと思いながら、好きな音楽を聴いてたけど、それもこの大きな出来事と重なるようにしか聴こえませんでした。
それだけ大きな波の中にいるんだという実感。

夜会った人たちからその話題を聞くと、大きな悲しみの中に動揺していることを感じつつも、だんだん落ち着いて来るのを感じました。

これは大きな流れの中にあることで、一つの節目かもしれなくて、この先へ続いていく道標を付けることができるきっかけになる。

会った人たちの中には、初めて会う若い人たちが何人かいて、彼らの存在感が力強く感じられました。
ただそこにいるだけで、その存在感ってフレッシュで光っててエネルギーがある。

混沌としたものを抱えながら、それでも挑み続ける、ガチな人を間近に見て、古都の街で夜を過ごしました。

何か力になることをしたい、と思っている。
一つだけ、自己満足かもしれないけど、すぐできることはある。

「自己責任」と小泉政権

前回「自己責任論はもう止めよう」という記事を書きました。

 

nekorin.hatenablog.com

この「自己責任」という言葉が、世の中を闊歩し始めたのはいつだろうか?

記憶では、小泉政権の当時、イラク戦争で人質となった日本人3人の事件があった2004年。

 

外務省の海外渡航情報で退避勧告が出ていたイラクに入国していた3人。

また3人の家族がテレビでメッセージを出し(記者会見?)

「犯人の言うとおり、3人のために(当時イラクに派遣されていた)自衛隊を撤退させてほしい」

と言っていた。
それを聞いて、「勧告を無視した3人のために自衛隊を撤退させろと言うなんて、なんて身勝手な人たちだ」と憤慨した。

それは私が自分でそう思ったというよりは、世の中の空気のとおり反応していたんだろう。

 

こんな記事がありました。

bunshun.jp

2018年の記事。

誰のせい、みたいな煽りを感じるタイトルが、自己責任とは反対のイメージに思わせるけど、他人に責任を負わそうとする捉え方が同じ目線、って思う。

だけど、重要なのは誰が言い始めたのか、ではなく、大きなインパクトを社会へもたらした人の言葉だろう。

 

4月16日の毎日新聞・夕刊一面は「3人、18日にも帰国」。その脇には「イラク人を嫌いになれない 高遠さん『活動続ける』」という小見出しがある。高遠菜穂子さんはイラクでボランティア活動をしていたのだが、その活動は今後も続けると答えたのである。
 するとその言葉を聞いた小泉首相は、
《 「いかに善意でもこれだけの目に遭って、これだけ多くの政府の人が救出に努力してくれたのに、なおそういうことを言うのか。自覚を持っていただきたい」と批判した》

わざわざ首相が強い言葉で非難したのだからインパクトは強かった。人々の記憶に強烈に刻まれたのだ。

 

当時、小泉さんのこの言葉に賛同する人が多かったと思う。

私もそうだった。親が親なら子も子で身勝手な人だと。

与党の他の政治家も挙って彼等に反省を促し、責め立てた。

そして記憶をたどると、センセーショナルにこの事件は連日テレビに登場し、世の中お祭り騒ぎ。そして、帰国した3人をあらゆる言葉で批判し、ディスったりしていた。

あるものは正義を唱え、あるものは鬱憤晴らしのように彼らを感情のはけ口にしていた。

 

だけど、時間が経った今だから言えることであるが、その空気の外へ出てこの言葉と状況と人々の置かれた位置を眺めてみると、これは恐ろしいことだ。

 

 国家をあずかる政府の、しかも首相という政府のトップが一国民を非難する。

象が蟻を踏み潰すだけなのに、派手なパフォーマンスで人心を集める。

こんな強いメッセージがあるだろうか。

「自分の主張をするのではなく、政府に感謝し大人しくしていろ」

国のトップはこういうことを言ってはいけない。しかもメディアの前で。

 

そして当時の私も含め、世の人々は小泉首相快哉を叫び、一般人の若者たちを集団の言葉で踏みつけた。

おぞましい。

 

あの時の空気感は、もう20年くらい前のことなのでリアルではないけど、動画を見ると少し思い出せる。


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コメント欄には

「政策は知らんけど、こういうハッキリとものを言う人がまた出てきてほしい」

みたいなのが溢れててドン引き。

日本はもう落ちるとこまで落ちるしかないのか。

 

この浮かれた答弁やパフォーマンス、敵味方の構図を作って悪を懲らしめる側に立ち、有権者を煽る。

当時の私は「小泉劇場」の言葉のとおり、他人事のように劇場の観客になって笑ってテレビを見ていた。

小泉首相を「この人ちょっと…」と思ったのは、トリノオリンピック荒川静香選手が金メダルを取ったあとに、現地と回線をつないでお祝いの言葉を話していた時。

荒川静香さんは小泉首相の言葉に緊張しながら受け答えしていた一方で、小泉首相荒川静香さんの言葉を最後まで聞かないで、受け止める様子もなく、浮かれながら話の途中に入って言葉を挟み、言いたいことを言っていたのを見た。

それまではいい印象を持っていたので、がっかりしたのを覚えている。

これは荒川静香さんだけでなく、他の人とのやり取りでもきっとこんな風だろうと思ったし、総理大臣がこれで大丈夫なのだろうかと思った。

 

詳しいことは省くけど、小泉内閣の政策のあれやこれやで、日本は人々の繋がりを物心ともに断ち切る方向へ、日本人が物心ともにダメになる方向へ、決定的に舵を切った。

 

個人がバラバラになり、個々人は寄って立つ場所を失ったり、見つけられず、またそこへ依存したりして、足下がおぼつかない。

そんな人が集合した社会。

森永康平さんではないが、ミクロが集まってもマクロにはならない。

マクロの感覚は高いところや、平面的にも距離を取り、時間的な視点を持つことで成り立つもの。

 

自己責任。

少なくとも、子供のころはそんな言葉を聞いたことがない。

しかし、この「自己責任」の言葉と価値観が蔓延している世の中で育った子供はもう大人になっている。

社会を支配する価値観として定着している。

政治だけでなく、日常生活にも溢れている。

 

個人をバラバラにして、対立を煽る構造にある自己責任という言葉。

もうその中にどっぷりいるのだけど、流されるのではなく、抗いたい。

 

 

自己責任論はもう止めよう

最近、森永康平さんが続きますが、データを分析する方は現状についてだけでなく、未来のことを予測し、そのための対策について考え、提言していくことが大切だと改めて思いました。


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詳しくは動画なのですが、いまは企業や雇用の状況は改善してきているけど、今までの状況とか、これから予想されることを考えると、経済が元に戻る時に、改善できてる状況に逆回転が起こることが予想され、倒産や失業が心配される、とのこと。

だから、より手厚い対策をとらないと、日本社会は悲惨なことになってしまうので、コロナの状況が改善されれば、みんな安心できて良かった良かった、という話ではない。

特に融資を受けている企業などは返済を迫られる局面になることから、返済できずに倒産・廃業、そして雇用される人々は失業。

その時に、政府が彼らを援助するために補助金助成金を出してくれればいいけれど、防衛費の予算を増やすときも、財源として年金を減らしてそれに充てる議論をしていたくらいなので、助成金が出る可能性は低いだろうとのこと。

そして、人々の声もそれを後押しするかのように、
「時短や休業で補助金もらったのに、また俺たちの税金使うのか!💢
「好きで飲食店やってるのだから、廃業になるのも自己責任でしょ(だから補助金は出さなくていい)」
っていう声が溢れるだろうと。

そして、街にはジョーカーのような事件を起こす人が出現する(治安の悪化)

書いてて気が滅入る…(´;ω;`)

だけど私たちも、「あの人たちだけズルい」のような、近視眼的な、アリさんみたいな目で見るのではなく、感情をかき乱されないで、冷静でいたい。

その人たちのお店がなくなると、そこだけのオリジナルの愛用品が買えなくなる、待ち合わせに便利だったのに不便になる。
あのお店にはいろんな思い出がある。お店の人とのやりとりも楽しかった。自分の心の風景がひとつ消えてしまう。

もっと言えば、そのお店が自分の街にあることが、今ここの自分だけでなく、その店を利用する人たち、街の風景や将来を守ることにつながる、というようなことを考えたら、変わらずにそこにあってほしい。

それに、それは明日の自分かもしれない。
自分が本当に困っていて、助けてほしい時、「そんなお金はないから、自分たちで何とかしてください」というメッセージを出す政府とは何か。
何のために存在しているのか。とか考えちゃいますね。

そうではなく、私たちは「国民」なのだから、そのために存在し、働くのが「政府」の役割。政府が「自己責任でよろしく」って私たちに言うのなら、私たちだって「困っている国民を助けるために働いて」と政府に求めていい。

「悪魔の碾き臼」としての資本主義 

森永康平さんと浜崎洋介さんの対談動画のその2。

こちらもたいへん面白かったです。


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森永康平さんが、まさかの文学少年カミングアウト。

百人一首大会出禁、国語の偏差値90超え、中学生の頃にカール・ポランニーの「大転換」を読んだなどなど、驚きのエピソード!

 

前回の動画で、空気拘束主義の日本人論を展開した浜崎洋介さんですが、そこでは、目の前の他者を包括できる文脈(地)を喪失した人々が、目先の利益、その場の空気だけで動くことを解き明かしていました。

 

そして、今回そこからの手引きとして、そのカール・ポランニー「大転換」からの論考を紹介しています。

 

1944年に著された「大転換」は、カール・ポランニーが生きた時代、

産業革命での労働者の奴隷化

②植民地の利潤追求に伴う経済拡大、軍拡、第一次大戦

③株式市場の暴走、世界恐慌ファシズム

を背景にしています。

 

ポランニーのいう「自己調整型資本主義」は今でいう市場主義経済を指すかと思われますが、そこで生活世界の解体が進み、「悪魔の碾き臼としての資本主義」と指摘しています。

 

それまでは社会の中に経済が埋め込まれていたが、資本主義が表に出てくることで、社会が経済の中に埋め込まれてしまった。

 

世の中には市場には馴染まないものがある。

文化的制度や人々の暮らす住処を包括する土地、その人々が働くこと、人生ともいえる労働、そしてそれらを維持し、守る国家による貨幣。

 

すべてを市場に任せるのではないし、有用性があるかないかだけで判断すべきものではない。

 

資本主義が出てきたことにより、従来商品でないもの、商品化に適さないものが商品となり、擬制的に虚構を流通させることが危険と指摘。

 

市場メカニズムに人間の運命と自然環境の唯一の支配者になることを許す仕組みの危険性。

そもそも、人間、土地、貨幣は市場経済の前提となるもの。

 

自由な交換(経済)の為には、交換できないもの、蝶つがいが必要。

長期スパン(マクロ)で見られないから、国家理性が破綻している。

 

古典を読むことで、貨幣論の背後の国家、その背後にある土地や人間が見えてくる。

 

 

これらの論考を聞いて思うのは、やはりマクロやミクロの視点を認識することの大切さです。

時系列的に歴史を辿って見たり、現在に当てはめたりすることで、視野が広がる。

その当時を知ることで理解や共感が深まる。

 

そして、人間の社会生活のもとには、必ずその土地、風土があり、それなしには人は生活は営めないし、生き生きと生きることは難しいだろうということ。

生き生きとした人々が生きる場所としての土地。ふるさとと言っていい。

ふるさとなしで平気な人っているのか?

そこへ手を加えることに人々は畏敬を持っていいし、愛着を素朴に素直に示していいと思う。

 

どう生きるか、ということを考える時、心の問題だけだと足下がおぼつかないのは、歴史や土地、そういったものがない認識の時なのだろう、と確信します。

 

日本語ですら、商品化するようなことであれば、日本人の我々が引き裂かれるような気持ちになる。

 

すべてを市場に任せて、今ここのにんじんが手に入ることばかりに一喜一憂して生きるなんて、真っ平ごめん。

 

人間らしく生きるなら、違和感や直感に素直になることや、そのことを生き生きと論じてみたり、自分を守るものに思いを馳せ、感謝を伝えたり、土地の風に吹かれたり、食べ物をしみじみ味わったりしていたい。

そのためには、人としっかり交流、表現者クライテリオンの先生方のいうところの「交際」をして、大切な思いを分かち合うことが、それをさらに促してくれることと思う。

 

 

「空気拘束主義」の時代② 感想

こちらの動画、とてもインパクト強くて、ヘビロテしながら見ました。


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近代以前の日本がどんな国だったか、よく知らないけど、近現代の日本は大きな軸(世間)がないがゆえに、人々は不安になり、空気を伺い、飛びついて、その中に身を浸すことで安心感を得ようとする人が多い。

 

それだけでなく、空気に異を唱えることそのものが不道徳であり、調和をとることが第一となる。事なかれ主義。

そこには何のも思想も判断基準もない。

 

今の日本では、近年ますますその傾向に拍車がかかっている気がしている。

そのことに違和感が強い。息苦しさを感じる。

 

こんな日本社会で生きていくには、自分の居場所を作って大切にするしかない。

自分の中にある感覚や思いを大切にしながら。

ゾンビではなく、人間として生きていきたいから。