きっかけ
祖母の家での伯父の記憶は、ずっと心の片隅にあり、時折思い出したかのように蘇ります。
だけど、それは毎年8月になるとテレビでよく見る、戦争を振り返る番組で登場するモノクロ映像の特攻隊員や米艦隊に体当たりする戦闘機を見ても、伯父を思い出すくらいのものでした。
「永遠の0」が話題になった2013年の頃に、ある言論人の先生方が特攻隊のことを話している場に居合わせたことがありました。
その時、その先生は特攻隊員に対する敬意をしみじみと話されていて、聞いていた私は、その姿をイメージしていたら気持ちがジーンとして、伯父のことを思い出しました。
「実は伯父が特攻隊で亡くなったと聞いています。」と言ったのですが、いつ何処で?という疑問が言った側から湧き上がり、また特攻隊員のことについてもほとんど知らないことに気付きました。
ただ伯父を知る人がもういないことと、戦史を知るにはあまりにも範囲が広すぎると感じて、伯父のことや特攻について知るために行動を起こすにはまだぼんやりとした心持ちでした。
けれどもそのことがきっかけになったのかもしれないと、今は感じています。
伯父の遺影と祖母の言葉
祖母の家で何よりも忘れられないのは、部屋の奥の仏壇にあったモノクロの大きな写真と、その写真に映る人を語る祖母の言葉でした。
そのモノクロ写真に映っていたのは、飛行服を着て飛行帽を被っていた伯父でした。
私が祖母にこの写真の人は誰かと聞いたのか、祖母の方から教えてくれたのか覚えていませんし、伯父がどんな表情をしていたのかも覚えていません。
でも何故かそれが強く捉えて離さず、畏れや恐れ、神々しさとまではいかないけどそれに似たような感じを覚えていました。だから心の中では伯父の遺影を直視してはいけない、できない感覚がありました。
祖母はその写真に映る人のことを「特攻隊にいてフィリピンで戦死した」と話していました。
そして「伯父さんのようにお国の為に戦ってくれた人がいるから、今こうして生きていられる。だから伯父さんには感謝しなければならないよ」と、祖母は必ずといっていいほど伯父のことを話すときはそう言いました。
小学生だったのであまりピンとは来なかったけれど、それはとても重くて大切なことだということと、あの伯父の遺影と祖母の言葉は私の中では一緒になって記憶されています。
あの遺影は今どこにあるのか、もうなくなってしまったのか、今となっては分からなくなってしまっていることがとても残念です。
手抜きしたい時のごはん
平日はなかなか時間がないので、そんな日にはインスタント食品に一手間加えて、ちょっとだけオリジナルなご飯にします。
家にあった「陸軍さんのライスカレー」(先日お土産に買ったもの)。
箱の裏に牛肉と書いてあったので、同じお肉を加えるので買ってきました。肉がカレーよりも高い( ;∀;) 野菜は冷蔵庫にあるものを、と開けたら玉ねぎだけ_(┐「ε:)_
牛肉に日本酒を少し回し掛けてから少し置き、鍋に油を熱して牛肉を炒めます。
牛肉の色が変わったらいったん取り出して、油を少し入れて玉ねぎを炒めます。玉ねぎが少し色付くくらい。時間でいうと10~15分くらい。
肉を鍋に戻して、水をカップ1加え、カレーとすりおろし生姜を1かけ加えて10分くらい煮ます。隠し味に醤油を少し垂らします。
そのまま食べてもいいのだけど、煮込んだ方がおいしくなるので、煮物の時は鍋カバーをして1晩くらい置きます。じんわり火が通ってきっとおいしくなるはず~(*´▽`*)
いただきます(∩´∀`)∩ ご飯は煎り黒豆入りごはん。
オリジナルのレトルトがいいもののようで、やわらかく煮えた牛肉や玉ねぎがカレーによくなじんでいて、程よくスパイシーでほんのり和風の美味しいカレーでした\(^o^)/
祖母の家(3)
祖母の家へは母と電車で1時間くらいかけて通っていましたが、祖母の家の最寄り駅はとっても田舎の風情があって、その駅舎が大好きでした。
木造の駅舎(たぶん)で自動券売機がなく、厚くて硬くて券売機で買う切符より少し小さい切符を窓口で駅員さんから買っていました。
切符の窓口の前に木製のベンチが2,3台並んでいる列が2,3つあって、決して遠くはないのに子供ながら旅情を感じていました。
列車を待つホームの裏は田んぼが残っていて、天気が良い時、田んぼが夕焼けに染まっていたのをよく覚えています。
大人になってからその駅を訪ねてみましたが、駅舎が2階建てのエレベーター付きのものに変わっていて、駅の周りもマンションが立ち並んでいました。
あの頃の風情がほとんど感じられなくなっていて、ちょっとさみしかったです。
あのころ流行っていたのかもしれませんが、山口百恵の「いい日旅立ち」を聞くと、その駅舎や田んぼの風景を思い出し、あの駅にぴったりだなぁ、としみじみ感じます。
祖母の家(2)
小さいころは、家族全員で父の車に乗って年に数回遊びに行っていましたが、小学校高学年くらいの頃に、祖母が高熱を出したことをきっかけに(うろ覚え)、母が毎週末、身の回りの世話をしに行くのにくっついて行っていました。
駅から祖母の家まではバスの便もありましたが、本数が少なく、利根川の橋を渡って30分くらいかけて歩いていくことも多かったです。その道すがらの景色も田舎らしくて好きでした。
体調を崩したと言っても、祖母は元気な様子でしたので、畑で作物を育てていて、夏には自分で育てたトウモロコシを畑で取ってくれたり、鎌の使い方を教えてくれました。
祖母が畑で穫れたトウモロコシを手に私の方を笑顔で見ていたのを覚えています。
そのトウモロコシを焼いてくれたり、祖母のために前の日にスーパーで買ったエビやイカや野菜で天ぷらを作っていたのは母でした。
母が祖母の身の回りの世話をしている間、祖母と話したり、テレビを見たりもしましたが、家から持ってきた図書館の本を縁側で読むのが好きでした。
中でも大好きだったのが、現代中国のことについて書かれた小学生向けの本でした。
「ゴミが一つも落ちていない北京の街」
「人々は新しい中国を作り、みんなで協力して一生懸命集団で働き、都市や農村で働いています」
というのを読み、こんなすごい立派な国があるなんてすごい!としきりに感心して、何度も繰り返し読みました。
たぶん母や祖母に、本の内容を話して「中国はすごいね!」ときっと話していたのだろうと思いますが、母や祖母がどんなことを返したか覚えていません。
祖母は中国のことを「シナ」と呼んでいて、他の誰もそう呼ぶ人はいないのにぶれることがありませんでした。
その「シナ」で暮らしたこともある祖母は、私の中国万歳を目を細めて聞いていたってことはないだろうと思います。