方丈記(鴨長明)を読んでみた①

鎌倉時代初期の随筆家、歌人である鴨長明の代表作、方丈記を現代語訳付きで読んでみた。 

 下鴨神社賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ))の禰宜、鴨長継の次男として久壽(きゅうじゅ)二(西暦1155)年ごろ出生。平安貴族から武士へ権力の移行する時代の社会、平家の栄枯盛衰や源平合戦から鎌倉時代初期までを生き抜いた長明の時代と、この「方丈記」に書かれたことを辿ってみたいと思います。

長明が書いた言葉、言葉の発する音や意味を感じられるように読み、今という時代との違和感や、時代を超えても繋がっている感じをできるだけ多く味わってみたいです。

日本が降伏した日

終戦の日」の前、作家の佐藤健志さんのブログを読みました。

平成最後の終戦の日、または「とにかく豊かになったのだから」を終わらせよう | 佐藤健志 official site ”Dancing Writer”

1945年8月15日は

日本と連合国の戦争が終わった日ではありません。

それはサンフランシスコ平和条約の発効した1952年4月28日。

 

しかも1945年8月15日は

日本が連合国に降伏した日ですらありません。

それはミズーリ号で降伏文書調印の行われた1945年9月2日。

 

ならば連合国にたいしてポツダム宣言の受諾を伝えた日か?

いえいえ、それは1945年8月14日。

 

1945年8月15日は

連合国にたいするポツダム宣言の受諾を、玉音放送という形で対内的に公表した日

にすぎないのです。

 

日本人のほとんどは

あの放送で初めて陛下の肉声を聴いたのですから

強烈なインパクトがあったのは想像に難くない。

 

しかし国際的には、さして意味のある日付ではないのです。

まあ韓国や北朝鮮のように、

この日を「光復節」や「解放記念日」として重視してくれる

ありがたい国もあるにはありますが

いかんせん少数派。

 

とはいえ、あの戦争の敗北からまず学ぶべき教訓があるとすれば、

それは次のようなものではないのか。

 

外国と関わる際、

とくに自国の覇権を確立しようとする際には

自分の都合や尺度にあわせて物事を考えるべからず。

なにせ相手は外国(人)なのだ。

向こうの視点を理解したうえで

つねに最悪の(=自分にとって都合の悪い)事態を想定するくらいでないかぎり

いかに善意や正義があろうと失敗する。

 

その意味で8月15日を「終戦の日」と呼んでいる間は

われわれは過去の教訓をちゃんと学んでいないと思うわけです。

 

ついでに気になるのは

9月2日や4月28日ではなく

8月15日を「終戦の日」と見なすことが

じつは現実逃避としての側面を持っている点。

 

だってそうでしょうに。

9月2日を「終戦の日」としたら、

戦争はただ終わったのではなく

日本の敗北と降伏で終わったことがクローズアップされる。

4月28日なら、

占領もまた戦争の一部だったことがクローズアップされます。

 

早い話が

日本の力ではどうにもならないところで歴史が動いていたことを

直視せざるをえなくなるんですな。

 

しかるに8月15日なら

昭和天皇の力で歴史が動いたかのごとく

印象づけられるではありませんか。

 

8月15日は日本人にとっては重要な日で、それぞれの気持ちを思い起こし、考え、それを表出させてきた。

けれども、玉音放送の重みもあり、あの日に戦争が終わったことを噛みしめていたことが、実は戦争に負けたことを直視せず、やり過ごす口実にもなっているのかもしれない、と思った。

その1週間くらい前には広島・長崎の原爆の日があったけれど、ニュースでは「戦争の惨禍を繰り返さない」「平和への誓い」など、誰が原爆を二つの都市に投下したのか、にすら触れないことに大きな違和感と不快感があった。

その後、上記の記事を読んだとき、頬をパンパンと叩かれた感じがした。
であるなら、「戦争に敗れた」事実をもっとしっかり感じなければ、と思った。

戦争の体験もなく、肉親や語り部からの伝聞、書物や映像で見聞きするだけの戦争。

心許ない現実感しかないまま、どこまで感じ取れるだろう。

 

8月14日のポツダム宣言受諾が公表された翌15日の玉音放送を経て、昭和20年9月2日、東京湾上のミズーリ号で降伏文書(休戦協定)の調印式が行われた。

ミズーリ号が停泊した場所について:

そこは、かつて日本に開国を迫ったペリー提督が日米和親条約調印の際、旗艦としていたポーハタン号を停泊させていたのと同じ場所と言われる。そんな演出を考えたGHQ連合国最高司令官総司令部マッカーサー元帥も、当日艦上での演説前には、緊張が隠せなかったという。 

NHKは何を伝えてきたか 国際放送の80年 国際放送年代史+サービス概要 1935~2015 より

また、マッカーサー1854年日米和親条約が締結されたときのペリー艦隊「ポーハタン号」に掲揚されていた星条旗を調印式の場に持ち込んでいた。アメリカらしい執念を感じる。

主な参列者:

日本 重光葵(外相) 梅津美治郎参謀総長

連合国 ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官

各国代表 米国・中国・英国・ソ連・豪州・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランド 

主な内容

  • その所在地に関わらず日本軍全軍へ無条件降伏布告。全指揮官はこの布告に従う
  • 日本軍と国民へ敵対行為中止を命じ、船舶・航空機、軍用非軍用を問わず財産の毀損を防ぎ連合国軍最高司令官及びその指示に基づき日本政府が下す要求・命令に従わせる
  • その所在地に関わらず、日本の支配下にある全ての国の軍隊に無条件降伏させる
  • 公務員と陸海軍の職員は、日本降伏のために連合国軍最高司令官が実施・発する命令・布告・その他指示に従う 非戦闘任務には引き続き服する
  • ポツダム宣言の履行及びそのために必要な命令を発しまた措置を取る
  • 天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認める処置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる
  • 日本政府と大本営は捕虜として抑留している連合軍将兵を即時解放し必要な給養を受けさせる

日本の降伏文書 - Wikipedia )


Japanese Sign Final Surrender 日本の降伏

この動画の2:35くらいにポーハタン号から持ち込んだ星条旗が写っている。

式典終了後、米海軍の飛行機が連帯を組んで東京湾上空を飛行した。日本が戦争に負けたことを象徴する映像。動画の終りの方でも見られる。

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降伏文書の発効を受けて昭和天皇による「降伏文書調印に関する詔書」を発せられた。

 朕ハ昭和二十年七月二十六日米英支各国政府ノ首班カポツダムニ於テ発シ後ニ蘇聯邦カ参加シタル宣言ノ掲フル諸条項ヲ受諾シ、帝国政府及大本営ニ対シ、聯合国最高司令官カ提示シタル降伏文書ニ朕ニ代リ署名シ且聯合国最高司令官ノ指示ニ基キ陸海軍ニ対スル一般命令ヲ発スヘキコトヲ命シタリ
朕ハ朕カ臣民ニ対シ、敵対行為ヲ直ニ止メ武器ヲ措キ且降伏文書ノ一切ノ条項並ニ帝国政府及大本営ノ発スル一般命令ヲ誠実ニ履行セムコトヲ命ス
御名御璽
昭和二十年九月二日
東久邇宮内閣閣僚全員連署

 これより、日本は連合国の占領下に置かれ、サンフランシスコ講和条約の発効(昭和27(1952)年4月28日)により、停戦状態から終戦を迎えることになる。

そう考えると、「終戦の日」が8月15日、というのは国内の一定の者にとっては都合が良い括り方になっていると感じる。

 

そして今日(9月2日)、靖國神社に行きました。

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込み上げる気持ちはいつもと同じものもあったけど、やっぱり違い、申し訳ない気持ちが当時のことにも、今のことにも浮かび上がり、だけどこのまま負け続ける訳にはいかない、と思うのがやっとだった。

そして、その足で帰る生活の場には「負けた日」を織り込むにはあまりに感覚のズレがあると感じていた。

八甲田山雪中行軍記念館

青森市八甲田山雪中行軍記念館。

昭和53年に民間の有志の方により開館、平成16(2004)年に再整備され、青森市により運営されています。

訪れたのは、5月の中旬ごろ。

goo.gl

http://www.moyahills.jp/koubataboen/index.html 

4月1日~10月31日 9:00~18:00

11月1日~3月31日 9:00~16:30

(休館日 12月31日~1月1日 2月21日~2月22日)f:id:nekotower:20180729020646j:image

この場所に面した道を通って、当時、第五歩兵連隊が八甲田山へ向けて行軍したのだとガイドさんから聞きました。


資料館の中は撮影がダメだと思ったので、写真は撮りませんでした。
(実際は撮影できます。資料館サイトに明記)

展示の内容は、遭難した青森第五連隊と同時期に行軍していた弘前第三十一連隊の行軍の様子、遭難の顛末、食料や装備について、当時の装備品(現代の自衛隊との比較)、救援、捜索の顛末まで。

スクリーンでの概要の上映、現地ガイドさんの解説などとてもわかりやすく丁寧で地元の方が大切にされているのを感じました。

下は隣接する陸軍墓地。明治36(1903)年創設。
写真中央奥の墓碑は下士官以上の方と当時生還された11名の方の墓碑、その前に並ぶ墓碑は189名の方の墓碑。
墓地を囲むように植えられている多行松(タギョウショウ)は墓地の創設時に四国から移植されたものだそうです。
冬はここに雪が深く積もるので、墓碑も雪に埋もれてしまうそうです。
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毎冬、陸上自衛隊青森駐屯地第五普通科連隊が八甲田演習を行っていて、この墓地を訪れています。 

www.asahi.com

  隊員は青森市幸畑の陸軍墓地にある慰霊碑に献花した後、午前8時ごろ、重さ約20キロの荷物と小銃を背負って雪道を歩き始めた。

 

墓地の端に「明治35年雪中行軍遭難凍死者英霊堂」がひっそり佇んでいました。
(昭和16(1941)年5月12日建立)
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かなり建物は古くて、75年も青森の厳しい風雪に耐えて立っている姿は健気に英霊を守っているようでした。
ガイドさん曰く、この英霊堂の管理は教育委員会がしているので、資料館を管理している青森市とは別なので、古いままで手が付けられていないのだとか。
本当に顕彰し、後世に伝えるのであれば、行政の都合で放置しないで改修でも何でもしてしっかりと守ってほしい。

 

英霊堂の前に狛犬が二匹います。

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この犬は二匹ともアイヌ犬とのことで、捜索に北海道から出動したアイヌとともに活躍したアイヌ犬の産んだ子供、との説明書きがありました。
ガイドさん曰く、アイヌ犬の狛犬は日本でここだけだとのこと。

 お堂の中には、雪中行軍に参加した210名の英霊の木像がありました。
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この木像を見た時、熱いものが込み上げて、英霊の皆さんがここにお祭りされているのだと強く感じました。

ガイドさんの話では、当時地元の仏師さんが一人一人の像を手作りして奉納したのだそうです。
一人一人の台座の上には、その方の階級とお名前とが記されていますが、長い年月のうちに木像の傷みが進み、ご遺族が手入れをしたものはお名前もはっきりと読み取れるけれど、そうでないものはそのままになってしまっているとのことです。
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「製作 佛光堂 中崎佛壇店 佛師 中崎英吉」とあります。
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 この古いお堂の両脇いっぱいに古い木像が並んでいるのを見て、資料館では見ることがなかった、地元の人々が寄せていた思いを感じました。
映画や小説に描かれたことや、遠い歴史の一コマだけでなく、確かに地元の人たちとともにこの事件があったし、彼らを顕彰する地元の人たちの姿があった。

この英霊堂と木像の英霊たちが、資料館を訪れる人たちの目に今よりもっと触れてもらえますように、切に願います。

 

映画「八甲田山」

青森県に5月に行ったのが初めてだったので、訪ねる前に「八甲田山」の映画を初めて観た。(昭和52年・1977年公開)


https://youtu.be/HslnP1vdWTw


明治時代、日清戦争の後、日露戦争の前に実際にあった八甲田山雪中行軍演習遭難事件(明治35・1904年)に基づいている。

弘前と青森の陸軍部隊の中隊長が出発前に語り合う場面がある。
「人は育った風土を忘れられない、その風土から受けたものは大きく、他の土地に行ってもなかなかその土地の者のようには歌う(振舞う)ことができない」
「行軍で一番辛い時は、故郷の秋田で見た山や花、遠足で見た海の風景が目に浮かぶ」
と青森の連隊長が言う。

過酷な雪山の灰色の場面が続く中、時折、色鮮やかなリンゴ畑、花が咲く草原や夏山、ねぶたの山車が練り歩く景色が差し込む。
それがとても印象に残るけれど、多くの隊員が過酷な中で次々に斃れていく。

情緒的に観てしまいがちだけど、陳腐で安い情緒はいらない。


青森を訪ねたら、この八甲田山雪中行軍のゆかりの場所を訪ねようと思った。 

 

この映画の脚本を手掛けた橋本忍さんがつい最近亡くなった。(2018(平成30)年7月19日)
3年という年月をかけて作り上げた映画「八甲田山」。ロケ地もまさにその八甲田山

その壮絶な映像とストーリーから橋本さんやスタッフ、出演した役者たちの並々ならぬ思いを感じた。

www.toonippo.co.jp

 

りんごのふるさとへ

りんごを買ったとき、心惹かれたパッケージの写真。 

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この岩木山を背に咲くりんごの花を見て、この場所でりんごの花を見たくなりました。

りんごの花の盛りは、弘前では桜の花が散った頃。

 

5月の連休の次の週末に訪ねました。

北海道新幹線北へ。盛岡を過ぎると木々の緑の色がまだ若い。北国に入ったのを実感。
新青森で乗り換え。ローカル線、奥羽本線に乗ると車内の人たちの様子があまりに日常的なので、現地に着いた感じがまたさらに強まった。
車窓から岩木山が見えた時、ドキッとしてその後時間がゆっくりと流れるような感覚。あこがれの山を初めて見て、その姿に圧倒され、見とれてしまった。

弘前駅についたら、イベント列車のセレモニーをしていました。
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津軽三味線の生演奏と、ゆるキャラ「たか丸くん」とミス桜がお出迎え。
津軽三味線の音色はとても心惹かれる響き。

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駅を出て、レンタカーを借りて岩木山方面へ出発。

 

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走る道すがら、岩木山が見える。

残雪の岩木山は本当に見たかったので、ハンドル握りながらめっちゃ嬉しくて気分が上がる。

 

岩木山神社に到着。 

初めて来た地であるけど、土が雪解けで冬の気からじわじわと放たれて伸びをしているような、湧き上がる気を地面から感じて、さぞかし冬は厳しいのだろうと感じられた。

鳥居の奥に見える岩木山。ご神体はこのお山。

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石段を上がったところにいたユーモラスな石像の生きものたち。

 

りんご公園に行きました。

goo.gl

りんご公園 - りんご公園 (弘前市ホームページ)

ここからのリンゴ畑の景色がとても良いと聞いてきたら、本当だった。
しばらくここに立って、リンゴの花と岩木山の姿に見惚れました。
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いろいろな種類のりんごの花が満開。
りんごの花の香りはバラの花のような華やかさと可憐さがあってその可憐な姿がよりくっきり。

会場ではちょうど「りんご花まつり」をやっていて、りんごを使ったお菓子やジュース、シードルの試飲などにたくさんの人が集まっていた。

シードルの試飲はできなかったけど、地元のジュースやアップルパイを楽しみました。

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りんご畑をよく見渡せる高台にあった木。

厳しい冬の猛烈な風や雪に耐えてそこに立ち続けてきたたくましい姿をその幹の模様に表れているのを見てぐっときた。

 

夕方になってから弘前城へ。

www.hirosakipark.jp

 弘前城天守は石垣修理のため、曳家により現在地に一時移転。
石垣は工事中でした。

f:id:nekotower:20180722164430j:image弘前城のある弘前公園は桜の名所で、ソメイヨシノはすっかり散ってしまっていましたが、八重桜が満開でした。
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日本最北端の天守は高さ14メートルと小ぶり。
ここから見える岩木山がとても美しかった。
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弘前津軽岩木山とともにずっとある。

雄大な山と澄んだ空気の夕空を見ながら、初めて来た北国の景色をしばらく眺めていました。

陸軍那須野飛行場跡へ

昨日の記事で、那須野陸軍飛行場格納庫跡が先月解体された、という記事を紹介しました。 

nekorin.hatenablog.com

昨年、ここを訪ねたので、その時の記録を記します。

戦死した伯父の戦歴にここにいた記録があり、しかも内地にいたのはここだけのようなので、どうしても来てみたかったので尋ねました。

訪ねる前にネットで調べてみると、ここを訪ねた人はやはりいて、詳しくレポートしてあったのでプリントアウトして、グーグルマップをお供に訪ねました。

こちらのサイトを参考にしました。

埼玉飛行場跡地を行く(その1)

消え行く史跡 〜埼玉飛行場跡地〜(その1)

airfield-search2.blog.so-net.ne.jp

大刀洗や萬世飛行場跡のように保存している場所ではないので、その荒廃ぶりに悲しくなりましたが、知人を真似て靖國神社の御神酒を少しずつ振り掛けて手を合わせました。

那須(黒磯)の向こうに雪がうっすら残る山が見えたり、大きな木々を見て、この木は当時からあったのか、伯父もこの木を見たことがあっただろうか?などと思いながら、ほの涼しい夕方の風を感じていました。

ここは昭和17年熊谷陸軍飛行学校那須野分教所として開校。
伯父がいたのはこの頃。
昭和20年には空襲があり、その後8月13日には6機特攻出撃した記録があります。

ここに飛行場があったと示すただ一つの記念碑の碑文を以下貼り付けます。

『日支事変から第二次世界大戦に突入した日本陸軍は飛行操縦将兵の早期養成に迫られこの地に昭和十三年から三年の歳月をかけて面積約二百八十ヘクタールの飛行場を完成した。爾来、熊谷および宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊として下士官、特別操縦見習仕官、少年飛行兵等の操縦学生が猛訓練を繰り返し、卒業後はつぎつぎと第一線へ配属されていった。

戦況熾烈となった昭和二十年四月茨城県より鉾田教育飛行師団が移駐して実戦部隊となり、双襲双軽爆撃機による特攻機の訓練基地として○○神鷲隊十二隊が編成され、うち二隊は終戦直前、岩手及び鹿島東方洋上に特攻散華せられた。七月、八月には敵艦載機の来襲を受け将兵並びに付近住民多数の戦死傷者を出し、また飛行場開設以来猛訓練に依り幾多有為の士が殉職せられた。

その門防衛整備にあたった軍人軍属、近隣から動員された老少婦女子を含む各種奉仕隊も共に祖国の勝利を念じつつ辛酸を分かち合ったのである。時代の流れは刻々にかつての面影を消し去ってゆく。幸い今日まで生を得たわれ等当時の関係者は世界の平和と日本民族永遠の繁栄とを祈りこの地に記念碑を建立する。願わくばここを巣立ちここに戦死せられた人々の霊の安からんことを。
 昭和五十三年十一月五日建立 撰文 月江冨治郎』

この碑文を記した、月江冨治郎氏は当時の栃木県黒磯市長。黒磯市は平成17(2005)年に塩原町と合併し、那須塩原市となっています。
このような碑文は、当時を知り、肌で感じた人が記したに違いないと思わせる凄みや重みを感じます。現代の我々には書けないだろう。
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ここが那須分教所の正門があった場所。右側は埼玉(さきたま)小学校。

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「旧埼玉飛行所見取図 総面積約380町歩」
見取図が書いてあって、戦跡として訪ねた人は皆これを頼りに辿ったと思われます。
というか、これがないと何が何やら状態です。
※380町歩≒3762000平方メートル
甲子園球場は39600 平方メートルなので、約95個分。

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ここ一帯が飛行場後であったことを示す唯一のものである石碑。
当時を知る人も、この石碑が立った当時を知る人も少なくなってきているのだろう。

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陸軍那須野飛行所跡の石碑と見取図の石碑。 

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地図で見ると、格納庫があったあたり。
私有地かもしれなかったけれど、お邪魔させてもらってみると、このようなものが10基くらい並んで残っていた。ボルトが付いていたけど何だろう?(平成30(2018)年1月に解体されています)

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鬱蒼としており、画面で見ると右の方にもこの礎石のようなものが並んで立っていました。(平成30(2018)年1月に解体されています)

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さっきの格納庫跡の向かい側。飛行場のアスファルトがそのまま残っているように見える。奥の方には「駐車場」の看板が見えた。

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山は当時も今も同じように聳えていたのだろう、伯父もこの風景を見ていたのだろうか。

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地図によると、ここが2本あった滑走路のうちの1本があった場所。
これを挟んで左右に家が建っている。それにしてもずいぶん荒れています。

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こちらは2つあったうちのもう1本の滑走路跡。普通に生活道路になっていました。

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五月の空は美しい。
あの山もここにいた人たちをずっと見てきたのだと感慨深い。

那須野陸軍飛行場格納庫跡解体

この記事を見つけて、衝撃を受けた。
「「那須野飛行場格納庫跡」解体へ 那須塩原
そして悲しくなった。
this.kiji.is

気付いたのは今日で、この記事は半月ほど前、1月13日付。
もう解体されて、今は跡形もないことになる。

こうして戦跡が消えていく。その記念碑になる実体が消滅すれば、人々の記憶から消えていくのも加速する。