近代日本の軍楽隊誕生

明治2年9月、薩摩藩士の中から選ばれた30名の若者が鹿児島からイギリス船に乗って神奈川港に上陸、横浜本牧の妙香寺に寄宿した。薩摩藩軍楽伝習生たちである。薩摩藩は諸藩に先駆けて軍楽隊を組織したのである。(薩摩バンド)
軍楽隊といっても肝心の楽器がなく、軍楽伝習生たちは来る日も来る日も号令喇叭と楽譜の学習に明け暮れていたが、隊結成の翌年明治3年6月、待ちに待った楽器一式がロンドンから到着する。
制服を持たない隊員たちは、ザンギリ頭、股引きにわらじ履き、ボタンで留めた羽織を着て腰に刀を差してラッパを吹いていた。そんな奇妙奇天烈なスタイルのまま、さっそくイギリス人教師フェントンの特訓が始まったが、隊員たちは実に熱心に稽古を行い上達も早かったという。
楽長・鎌田真平(26歳)以下、後の海軍軍楽隊初代隊長中村祐庸(すけつね・18歳)、後の陸軍軍楽隊隊長四元義豊(18歳)を含む、12歳から27歳の若者たちの平均年齢は18.5歳。
軍楽隊の教師、ジョン=ウィリアム・フェントンはイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊隊長であったが、毎日レッスンに出張してきてくれたらしい。彼は宮内省雅楽課の楽人たちの授業も受け持っていた。すべての楽器に精通した豊富な知識と、その温厚な性格から、生徒たち皆に敬愛されていたという。(「三つの君が代」)

 

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

アイルランド関係者の間では知る人ぞ知る、このフェントンという人物はアイリッシュです。当時アイルランド島は英国の一部でした。1831年アイルランド南部コーク州キンセール生まれ。
また、薩摩バンドが寄宿した横浜妙香寺は、「日本吹奏楽発祥の地」の碑が立っています。


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