映画「八甲田山」

青森県に5月に行ったのが初めてだったので、訪ねる前に「八甲田山」の映画を初めて観た。(昭和52年・1977年公開)


https://youtu.be/HslnP1vdWTw


明治時代、日清戦争の後、日露戦争の前に実際にあった八甲田山雪中行軍演習遭難事件(明治35・1904年)に基づいている。

弘前と青森の陸軍部隊の中隊長が出発前に語り合う場面がある。
「人は育った風土を忘れられない、その風土から受けたものは大きく、他の土地に行ってもなかなかその土地の者のようには歌う(振舞う)ことができない」
「行軍で一番辛い時は、故郷の秋田で見た山や花、遠足で見た海の風景が目に浮かぶ」
と青森の連隊長が言う。

過酷な雪山の灰色の場面が続く中、時折、色鮮やかなリンゴ畑、花が咲く草原や夏山、ねぶたの山車が練り歩く景色が差し込む。
それがとても印象に残るけれど、多くの隊員が過酷な中で次々に斃れていく。

情緒的に観てしまいがちだけど、陳腐で安い情緒はいらない。


青森を訪ねたら、この八甲田山雪中行軍のゆかりの場所を訪ねようと思った。 

 

この映画の脚本を手掛けた橋本忍さんがつい最近亡くなった。(2018(平成30)年7月19日)
3年という年月をかけて作り上げた映画「八甲田山」。ロケ地もまさにその八甲田山

その壮絶な映像とストーリーから橋本さんやスタッフ、出演した役者たちの並々ならぬ思いを感じた。

www.toonippo.co.jp

 

りんごのふるさとへ

りんごを買ったとき、心惹かれたパッケージの写真。 

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この岩木山を背に咲くりんごの花を見て、この場所でりんごの花を見たくなりました。

りんごの花の盛りは、弘前では桜の花が散った頃。

 

5月の連休の次の週末に訪ねました。

北海道新幹線北へ。盛岡を過ぎると木々の緑の色がまだ若い。北国に入ったのを実感。
新青森で乗り換え。ローカル線、奥羽本線に乗ると車内の人たちの様子があまりに日常的なので、現地に着いた感じがまたさらに強まった。
車窓から岩木山が見えた時、ドキッとしてその後時間がゆっくりと流れるような感覚。あこがれの山を初めて見て、その姿に圧倒され、見とれてしまった。

弘前駅についたら、イベント列車のセレモニーをしていました。
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津軽三味線の生演奏と、ゆるキャラ「たか丸くん」とミス桜がお出迎え。
津軽三味線の音色はとても心惹かれる響き。

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駅を出て、レンタカーを借りて岩木山方面へ出発。

 

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走る道すがら、岩木山が見える。

残雪の岩木山は本当に見たかったので、ハンドル握りながらめっちゃ嬉しくて気分が上がる。

 

岩木山神社に到着。 

初めて来た地であるけど、土が雪解けで冬の気からじわじわと放たれて伸びをしているような、湧き上がる気を地面から感じて、さぞかし冬は厳しいのだろうと感じられた。

鳥居の奥に見える岩木山。ご神体はこのお山。

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石段を上がったところにいたユーモラスな石像の生きものたち。

 

りんご公園に行きました。

goo.gl

りんご公園 - りんご公園 (弘前市ホームページ)

ここからのリンゴ畑の景色がとても良いと聞いてきたら、本当だった。
しばらくここに立って、リンゴの花と岩木山の姿に見惚れました。
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いろいろな種類のりんごの花が満開。
りんごの花の香りはバラの花のような華やかさと可憐さがあってその可憐な姿がよりくっきり。

会場ではちょうど「りんご花まつり」をやっていて、りんごを使ったお菓子やジュース、シードルの試飲などにたくさんの人が集まっていた。

シードルの試飲はできなかったけど、地元のジュースやアップルパイを楽しみました。

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りんご畑をよく見渡せる高台にあった木。

厳しい冬の猛烈な風や雪に耐えてそこに立ち続けてきたたくましい姿をその幹の模様に表れているのを見てぐっときた。

 

夕方になってから弘前城へ。

www.hirosakipark.jp

 弘前城天守は石垣修理のため、曳家により現在地に一時移転。
石垣は工事中でした。

f:id:nekotower:20180722164430j:image弘前城のある弘前公園は桜の名所で、ソメイヨシノはすっかり散ってしまっていましたが、八重桜が満開でした。
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日本最北端の天守は高さ14メートルと小ぶり。
ここから見える岩木山がとても美しかった。
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弘前津軽岩木山とともにずっとある。

雄大な山と澄んだ空気の夕空を見ながら、初めて来た北国の景色をしばらく眺めていました。

陸軍那須野飛行場跡へ

昨日の記事で、那須野陸軍飛行場格納庫跡が先月解体された、という記事を紹介しました。 

nekorin.hatenablog.com

昨年、ここを訪ねたので、その時の記録を記します。

戦死した伯父の戦歴にここにいた記録があり、しかも内地にいたのはここだけのようなので、どうしても来てみたかったので尋ねました。

訪ねる前にネットで調べてみると、ここを訪ねた人はやはりいて、詳しくレポートしてあったのでプリントアウトして、グーグルマップをお供に訪ねました。

こちらのサイトを参考にしました。

埼玉飛行場跡地を行く(その1)

消え行く史跡 〜埼玉飛行場跡地〜(その1)

airfield-search2.blog.so-net.ne.jp

大刀洗や萬世飛行場跡のように保存している場所ではないので、その荒廃ぶりに悲しくなりましたが、知人を真似て靖國神社の御神酒を少しずつ振り掛けて手を合わせました。

那須(黒磯)の向こうに雪がうっすら残る山が見えたり、大きな木々を見て、この木は当時からあったのか、伯父もこの木を見たことがあっただろうか?などと思いながら、ほの涼しい夕方の風を感じていました。

ここは昭和17年熊谷陸軍飛行学校那須野分教所として開校。
伯父がいたのはこの頃。
昭和20年には空襲があり、その後8月13日には6機特攻出撃した記録があります。

ここに飛行場があったと示すただ一つの記念碑の碑文を以下貼り付けます。

『日支事変から第二次世界大戦に突入した日本陸軍は飛行操縦将兵の早期養成に迫られこの地に昭和十三年から三年の歳月をかけて面積約二百八十ヘクタールの飛行場を完成した。爾来、熊谷および宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊として下士官、特別操縦見習仕官、少年飛行兵等の操縦学生が猛訓練を繰り返し、卒業後はつぎつぎと第一線へ配属されていった。

戦況熾烈となった昭和二十年四月茨城県より鉾田教育飛行師団が移駐して実戦部隊となり、双襲双軽爆撃機による特攻機の訓練基地として○○神鷲隊十二隊が編成され、うち二隊は終戦直前、岩手及び鹿島東方洋上に特攻散華せられた。七月、八月には敵艦載機の来襲を受け将兵並びに付近住民多数の戦死傷者を出し、また飛行場開設以来猛訓練に依り幾多有為の士が殉職せられた。

その門防衛整備にあたった軍人軍属、近隣から動員された老少婦女子を含む各種奉仕隊も共に祖国の勝利を念じつつ辛酸を分かち合ったのである。時代の流れは刻々にかつての面影を消し去ってゆく。幸い今日まで生を得たわれ等当時の関係者は世界の平和と日本民族永遠の繁栄とを祈りこの地に記念碑を建立する。願わくばここを巣立ちここに戦死せられた人々の霊の安からんことを。
 昭和五十三年十一月五日建立 撰文 月江冨治郎』

この碑文を記した、月江冨治郎氏は当時の栃木県黒磯市長。黒磯市は平成17(2005)年に塩原町と合併し、那須塩原市となっています。
このような碑文は、当時を知り、肌で感じた人が記したに違いないと思わせる凄みや重みを感じます。現代の我々には書けないだろう。
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ここが那須分教所の正門があった場所。右側は埼玉(さきたま)小学校。

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「旧埼玉飛行所見取図 総面積約380町歩」
見取図が書いてあって、戦跡として訪ねた人は皆これを頼りに辿ったと思われます。
というか、これがないと何が何やら状態です。
※380町歩≒3762000平方メートル
甲子園球場は39600 平方メートルなので、約95個分。

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ここ一帯が飛行場後であったことを示す唯一のものである石碑。
当時を知る人も、この石碑が立った当時を知る人も少なくなってきているのだろう。

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陸軍那須野飛行所跡の石碑と見取図の石碑。 

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地図で見ると、格納庫があったあたり。
私有地かもしれなかったけれど、お邪魔させてもらってみると、このようなものが10基くらい並んで残っていた。ボルトが付いていたけど何だろう?(平成30(2018)年1月に解体されています)

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鬱蒼としており、画面で見ると右の方にもこの礎石のようなものが並んで立っていました。(平成30(2018)年1月に解体されています)

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さっきの格納庫跡の向かい側。飛行場のアスファルトがそのまま残っているように見える。奥の方には「駐車場」の看板が見えた。

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山は当時も今も同じように聳えていたのだろう、伯父もこの風景を見ていたのだろうか。

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地図によると、ここが2本あった滑走路のうちの1本があった場所。
これを挟んで左右に家が建っている。それにしてもずいぶん荒れています。

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こちらは2つあったうちのもう1本の滑走路跡。普通に生活道路になっていました。

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五月の空は美しい。
あの山もここにいた人たちをずっと見てきたのだと感慨深い。

那須野陸軍飛行場格納庫跡解体

この記事を見つけて、衝撃を受けた。
「「那須野飛行場格納庫跡」解体へ 那須塩原
そして悲しくなった。
this.kiji.is

気付いたのは今日で、この記事は半月ほど前、1月13日付。
もう解体されて、今は跡形もないことになる。

こうして戦跡が消えていく。その記念碑になる実体が消滅すれば、人々の記憶から消えていくのも加速する。

 

 

近代日本の軍楽隊誕生

明治2年9月、薩摩藩士の中から選ばれた30名の若者が鹿児島からイギリス船に乗って神奈川港に上陸、横浜本牧の妙香寺に寄宿した。薩摩藩軍楽伝習生たちである。薩摩藩は諸藩に先駆けて軍楽隊を組織したのである。(薩摩バンド)
軍楽隊といっても肝心の楽器がなく、軍楽伝習生たちは来る日も来る日も号令喇叭と楽譜の学習に明け暮れていたが、隊結成の翌年明治3年6月、待ちに待った楽器一式がロンドンから到着する。
制服を持たない隊員たちは、ザンギリ頭、股引きにわらじ履き、ボタンで留めた羽織を着て腰に刀を差してラッパを吹いていた。そんな奇妙奇天烈なスタイルのまま、さっそくイギリス人教師フェントンの特訓が始まったが、隊員たちは実に熱心に稽古を行い上達も早かったという。
楽長・鎌田真平(26歳)以下、後の海軍軍楽隊初代隊長中村祐庸(すけつね・18歳)、後の陸軍軍楽隊隊長四元義豊(18歳)を含む、12歳から27歳の若者たちの平均年齢は18.5歳。
軍楽隊の教師、ジョン=ウィリアム・フェントンはイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊隊長であったが、毎日レッスンに出張してきてくれたらしい。彼は宮内省雅楽課の楽人たちの授業も受け持っていた。すべての楽器に精通した豊富な知識と、その温厚な性格から、生徒たち皆に敬愛されていたという。(「三つの君が代」)

 

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

アイルランド関係者の間では知る人ぞ知る、このフェントンという人物はアイリッシュです。当時アイルランド島は英国の一部でした。1831年アイルランド南部コーク州キンセール生まれ。
また、薩摩バンドが寄宿した横浜妙香寺は、「日本吹奏楽発祥の地」の碑が立っています。


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myokohji.jp

ペリー来航と軍楽隊

ペリーの最初の日本訪問中、何度か西洋音楽が演奏される機会があった。1853年7月10日の日曜日、サスケハナ号では安息日の礼拝が執り行われ、聖書の朗読と祈祷が捧げられた。
また、フルバンドの伴奏で300人の水夫がアイザック・ワッツの"Old Hundredth"を演奏した。
「明治時代におけるアメリカ音楽の受容」から
ソンドラ・ウィーランド・ハウ Sondra Wieland Howe /佐藤渉(訳)立命館大学 

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_26-1/RitsIILCS_26.1pp.71-78SATO.pdf

 

この曲はプロテスタントの讃美歌のようです。
YouTubeには教会で厳かにパイプオルガンで演奏されていましたが、ペリーの時の雰囲気に近いのはこれかな。
雰囲気を味わうにはちょっと短い(^^;


Band of the Marine Battalion - Old 100th

 

(1853年)7月14日木曜日、楽団が"Hail! Columbia!"を演奏する中、ペリー提督は日本に上陸した。

この曲は初代米国大統領ジョージ・ワシントンの就任式のために作曲され、最初は「大統領のマーチ」という題だった。
1931年に現在の国歌が「星条旗」になるまで、この曲は19世紀のアメリカでは事実上の国歌だったそうです。(Wikipediaほか)

 

大人数のバンドによる演奏がYouTube上には見つからなかったのですが、バンドのマーチは当時の日本人には初めて聞く音楽であったし、メロディーは長調でも威圧的に聞こえたかもしれません。
それだけに、これが効果的であると受け止めた日本人はいたようで、日本の軍楽隊の創設、また日本への西洋音楽の導入にとって大きな出来事だったと言えると思います。


Hail Columbia

 

徳川幕府の末期、諸大名が争ってヨーロッパの軍事を学んだ際、それまでの陣鐘・陣太鼓・法螺貝に代えて新式の鼓笛隊を取り入れる藩が多かったという。しかし、笛・喇叭・小太鼓・大太鼓といった程度の鼓笛隊では、兵役訓練の役にしかたたず、対外的に威信を表し、大がかりな行事を進行するための西洋式吹奏楽を要望する声が関係者の間で高まっていた。特にアメリカ・ペリー提督の艦隊に乗り組んでいた二組の軍楽隊が奏でる演奏を眼前で聞かされた藩の重役たちは、その必要性を強く感じたに違いない。

鼓笛隊に合わせて「宮さん宮さん」を歌いながら、錦旗を掲げながら東海道を行進したのは明治元年(1868年)。

この曲は、作詞・品川弥二郎、作曲・大村益次郎と伝えられている。このようなリズミカルな歌はそれまでの日本には存在しなかった。(「三つの君が代」) 

 


宮さん宮さん

日本の伝統音楽小史(5)歌舞伎・長唄・箏と尺八・和洋における声と楽器

【日本の音楽⑪】歌舞伎

江戸の町は新興都市であったが、江戸城周辺に全国の300近い大名が居を構え、幕府直参の旗本や御家人を含めた武士の数は50万人になったといわれている。
侍たちの生活を支えるため、さらに商人や職人が全国から集まり、江戸の人口は120万人近くに膨れ上がる。
初期の女歌舞伎は挑発的な媚態を演技に加えて人気を博したが、女色をうったとして1629年に禁止された。その後、美少年の演ずる若衆歌舞伎が生まれ、それも女歌舞伎と同様の理由で禁止されたが、女形が女性を演じるという独特の伝統が生じた。
度重なる禁止令によって、却って演者の間に、容姿の美などに頼らず演技力を身に付けようという意識が高まって、歌舞伎に深い演劇性が生まれたと言われている。(「三つの君が代」) 

三つの君が代―日本人の音と心の深層

三つの君が代―日本人の音と心の深層

 

 

傾く(かぶく)という言葉は、新しい傾向を持つ、平衡を失うという意味があるそうですが、それが名前の由来となっているだけって、派手な衣装に見得や舞、そして三味や囃子の音などとても賑やかな様子が、隆興期の江戸中期・元禄時代の江戸文化の華やかさを窺わせるようです。やっぱり、日本伝統文化の頂点はやっぱり江戸時代だったんだろうなあ。
(動画は市川海老蔵の弁慶と市川團十郎の富樫と親子で共演しています)


「勧進帳」ダイジェスト版

 

【日本の音楽⑫】長唄


高い演劇性を目指した歌舞伎で重視されたのが、「長唄」という歌舞伎音楽(劇場音楽)である。
長唄は、短い歌詞を歌っていた地唄(上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽)から派生した長い歌詞を持つ歌である。さまざまな芸能を巧みにアレンジして華麗な音楽を作り上げて江戸町民に愛された。(「三つの君が代」)


江戸時代の邦楽は「語りもの」と「歌いもの」に分けられるそうで、こちらの長唄は「歌いもの」、浄瑠璃は「語りもの」になるということです。
この動画は先ほどの歌舞伎と同じ「勧進帳」です。
曲だけ聞いてても、リズムや音の華やかさがあって、邦楽にあまり馴染みがなくても割と聞きやすいんじゃないかと思います。


長唄 勧進帳 ~滝流し ~

 

【日本の音楽⑬】箏と尺八


九州・久留米の僧侶が中国から箏曲を取り入れ、その流れを汲んだ八橋検校(やつはし けんぎょう)が箏曲を発展させて開祖になった。箏の演奏家は幕府から検校(注 盲官の最高位の名称)という地位を得て特別に保護されたが、やがて、京都では生田流、江戸では山田流となり、箏曲の二大流派は大いに栄えることとなる。
尺八は元来、雅楽の楽器として日本に渡来したが殆ど忘れられていた。しかし、鎌倉中期、中国から新たに尺八が伝えられ、普化(ふけ)宗の虚無僧たちが読経代わりに演奏しながら諸国を歩いたのである。その素朴な音色は人々に好まれて、現在でも民謡伴奏楽器として広く使用されている。(「三つの君が代」)


この動画の「六段の調べ」は、八橋検校の作品。箏、尺八、三弦(三味線)の合奏。曲の構成は一段、二段…、五段、六段となっていて、少しずつテンポが上がり早くなるのですが、ノリノリのリズムを取って弾いてはいけません。この動画ではノリノリにはならず、抑えた感じで演奏されています。

京都のお土産の「八ッ橋」(生じゃない方)お箏の形に似てます。江戸時代に誕生した焼菓子で、形が箏に似ているから(後付けっぽいけど)だと聞いたことがあります。


六段の調(三絃、筝、尺八の合奏です)

 
【和洋における声と楽器の関係】

 

江戸時代、日本伝統音楽は独自の世界を作り上げたが、その殆どが「ウタウ」音楽であったことに特に留意しなければならないと思う。
 西洋音楽では、「声」は「楽器」を模倣している。
 例えば、華やかな技巧を駆使したソプラノの歌など聞くと、それがよくわかる。彼女たちは、まるで華麗なフリュートそのものではないか。自らの体を正確無比な楽器と化して歌を歌うことに駆けているのある。
 一方、日本伝統音楽では、「楽器」が「声」を模倣する。
 日本伝統音楽のウタは、いかに日本語を情感豊かに伝えるかという一点に意識を集中させていて、伴奏の三味線も尺八も、微細に揺れ動く歌の節回しと、その渋みある声色を模倣することに全てを懸けている。そのため、日本の音楽は、音響の重なりの美しさを追求する和音音楽に進化することはなかった。ノドによる言葉の表現を極限まで追求する美感によって成立している日本の音楽は、遂に、西洋のような和音を構築する美学を持つことはなかったのである。(「三つの君が代」)


昔、箏の先生が合唱のコーラスみたいな声で歌っていて、ノドを大きく開いて頭の上から声を出して歌うように教えられたけど、和楽器にコーラスの裏声はとても違和感があって、それでは歌いたくないと思い、かといって何が適切なのかも分からず、結局適当に歌っていたので、本当の地歌(筝曲)の発声法は知らないまま。
この動画は、邦楽での歌い方の(私の)イメージに近いものです。そしてこの「千鳥の曲」はお箏らしくて好きな曲の一つです。


千鳥の曲(Chidori-no-kyoku)-吉沢検校作曲-都山流公刊譜・尺八改訂手付-2016年9月25日-福岡三曲協会

 

『千鳥の曲』は、吉沢検校(よしざわ けんぎょう/二世)が幕末に作曲した筝曲(そうきょく)。本来は胡弓と箏の合奏曲.
古今和歌集』、『金葉和歌集』から千鳥を詠んだ和歌二首を採り歌とし、器楽部である「前弾き」(前奏部)および「手事」(歌と歌に挟まれた、楽器だけの長い間奏部)を加えて作曲したもので、吉沢自身が考案した「古今調子」という、雅楽の箏の調弦、音階を取り入れた新たな箏の調弦法が使われている。
塩の山 差出の磯に 住む千鳥 
君が御代をば 八千代とぞ鳴く
古今和歌集』より 詠み人知らず
淡路島 通う千鳥の 鳴く声に 
幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
『金葉集』より源兼昌(みなもと の かねまさ)作
「差出の磯(さしでのいそ)」とは、山梨県山梨市の中心部、笛吹川沿い位置する景勝地のこと。笛吹川側から見ると突き出て(差し出て)おり、内陸部にありながら海辺の磯のように見えるところから「差出の磯」と名付けられた。

世界の民謡・童謡「千鳥の曲 筝曲」

http:// http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/chidori.htm