自己責任論はもう止めよう

最近、森永康平さんが続きますが、データを分析する方は現状についてだけでなく、未来のことを予測し、そのための対策について考え、提言していくことが大切だと改めて思いました。


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詳しくは動画なのですが、いまは企業や雇用の状況は改善してきているけど、今までの状況とか、これから予想されることを考えると、経済が元に戻る時に、改善できてる状況に逆回転が起こることが予想され、倒産や失業が心配される、とのこと。

だから、より手厚い対策をとらないと、日本社会は悲惨なことになってしまうので、コロナの状況が改善されれば、みんな安心できて良かった良かった、という話ではない。

特に融資を受けている企業などは返済を迫られる局面になることから、返済できずに倒産・廃業、そして雇用される人々は失業。

その時に、政府が彼らを援助するために補助金助成金を出してくれればいいけれど、防衛費の予算を増やすときも、財源として年金を減らしてそれに充てる議論をしていたくらいなので、助成金が出る可能性は低いだろうとのこと。

そして、人々の声もそれを後押しするかのように、
「時短や休業で補助金もらったのに、また俺たちの税金使うのか!💢
「好きで飲食店やってるのだから、廃業になるのも自己責任でしょ(だから補助金は出さなくていい)」
っていう声が溢れるだろうと。

そして、街にはジョーカーのような事件を起こす人が出現する(治安の悪化)

書いてて気が滅入る…(´;ω;`)

だけど私たちも、「あの人たちだけズルい」のような、近視眼的な、アリさんみたいな目で見るのではなく、感情をかき乱されないで、冷静でいたい。

その人たちのお店がなくなると、そこだけのオリジナルの愛用品が買えなくなる、待ち合わせに便利だったのに不便になる。
あのお店にはいろんな思い出がある。お店の人とのやりとりも楽しかった。自分の心の風景がひとつ消えてしまう。

もっと言えば、そのお店が自分の街にあることが、今ここの自分だけでなく、その店を利用する人たち、街の風景や将来を守ることにつながる、というようなことを考えたら、変わらずにそこにあってほしい。

それに、それは明日の自分かもしれない。
自分が本当に困っていて、助けてほしい時、「そんなお金はないから、自分たちで何とかしてください」というメッセージを出す政府とは何か。
何のために存在しているのか。とか考えちゃいますね。

そうではなく、私たちは「国民」なのだから、そのために存在し、働くのが「政府」の役割。政府が「自己責任でよろしく」って私たちに言うのなら、私たちだって「困っている国民を助けるために働いて」と政府に求めていい。

「悪魔の碾き臼」としての資本主義 

森永康平さんと浜崎洋介さんの対談動画のその2。

こちらもたいへん面白かったです。


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森永康平さんが、まさかの文学少年カミングアウト。

百人一首大会出禁、国語の偏差値90超え、中学生の頃にカール・ポランニーの「大転換」を読んだなどなど、驚きのエピソード!

 

前回の動画で、空気拘束主義の日本人論を展開した浜崎洋介さんですが、そこでは、目の前の他者を包括できる文脈(地)を喪失した人々が、目先の利益、その場の空気だけで動くことを解き明かしていました。

 

そして、今回そこからの手引きとして、そのカール・ポランニー「大転換」からの論考を紹介しています。

 

1944年に著された「大転換」は、カール・ポランニーが生きた時代、

産業革命での労働者の奴隷化

②植民地の利潤追求に伴う経済拡大、軍拡、第一次大戦

③株式市場の暴走、世界恐慌ファシズム

を背景にしています。

 

ポランニーのいう「自己調整型資本主義」は今でいう市場主義経済を指すかと思われますが、そこで生活世界の解体が進み、「悪魔の碾き臼としての資本主義」と指摘しています。

 

それまでは社会の中に経済が埋め込まれていたが、資本主義が表に出てくることで、社会が経済の中に埋め込まれてしまった。

 

世の中には市場には馴染まないものがある。

文化的制度や人々の暮らす住処を包括する土地、その人々が働くこと、人生ともいえる労働、そしてそれらを維持し、守る国家による貨幣。

 

すべてを市場に任せるのではないし、有用性があるかないかだけで判断すべきものではない。

 

資本主義が出てきたことにより、従来商品でないもの、商品化に適さないものが商品となり、擬制的に虚構を流通させることが危険と指摘。

 

市場メカニズムに人間の運命と自然環境の唯一の支配者になることを許す仕組みの危険性。

そもそも、人間、土地、貨幣は市場経済の前提となるもの。

 

自由な交換(経済)の為には、交換できないもの、蝶つがいが必要。

長期スパン(マクロ)で見られないから、国家理性が破綻している。

 

古典を読むことで、貨幣論の背後の国家、その背後にある土地や人間が見えてくる。

 

 

これらの論考を聞いて思うのは、やはりマクロやミクロの視点を認識することの大切さです。

時系列的に歴史を辿って見たり、現在に当てはめたりすることで、視野が広がる。

その当時を知ることで理解や共感が深まる。

 

そして、人間の社会生活のもとには、必ずその土地、風土があり、それなしには人は生活は営めないし、生き生きと生きることは難しいだろうということ。

生き生きとした人々が生きる場所としての土地。ふるさとと言っていい。

ふるさとなしで平気な人っているのか?

そこへ手を加えることに人々は畏敬を持っていいし、愛着を素朴に素直に示していいと思う。

 

どう生きるか、ということを考える時、心の問題だけだと足下がおぼつかないのは、歴史や土地、そういったものがない認識の時なのだろう、と確信します。

 

日本語ですら、商品化するようなことであれば、日本人の我々が引き裂かれるような気持ちになる。

 

すべてを市場に任せて、今ここのにんじんが手に入ることばかりに一喜一憂して生きるなんて、真っ平ごめん。

 

人間らしく生きるなら、違和感や直感に素直になることや、そのことを生き生きと論じてみたり、自分を守るものに思いを馳せ、感謝を伝えたり、土地の風に吹かれたり、食べ物をしみじみ味わったりしていたい。

そのためには、人としっかり交流、表現者クライテリオンの先生方のいうところの「交際」をして、大切な思いを分かち合うことが、それをさらに促してくれることと思う。

 

 

「空気拘束主義」の時代② 感想

こちらの動画、とてもインパクト強くて、ヘビロテしながら見ました。


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近代以前の日本がどんな国だったか、よく知らないけど、近現代の日本は大きな軸(世間)がないがゆえに、人々は不安になり、空気を伺い、飛びついて、その中に身を浸すことで安心感を得ようとする人が多い。

 

それだけでなく、空気に異を唱えることそのものが不道徳であり、調和をとることが第一となる。事なかれ主義。

そこには何のも思想も判断基準もない。

 

今の日本では、近年ますますその傾向に拍車がかかっている気がしている。

そのことに違和感が強い。息苦しさを感じる。

 

こんな日本社会で生きていくには、自分の居場所を作って大切にするしかない。

自分の中にある感覚や思いを大切にしながら。

ゾンビではなく、人間として生きていきたいから。

「空気拘束主義」の時代① メモ

森永康平さんのYouTubeチャンネルのゲストに浜崎洋介さんが登場しました。


とても興味深い議論だったのですが、整理を兼ねてメモ書き。


山本七平「空気の研究」
「全体空気拘束主義」

今ある現状の経験的な文脈が固定されている状況
「〇〇は絶対悪」

欧米社会は超越神を相対化する契機を伝統の中に組み込んでいる。
空気からの距離を保っている。

日本にも近代以前には武士道などが、現状的な文脈からの距離を取る態度を教えてくれていたが、近代でそれを捨て去ったので、近現代人はそれ以前の人たちよりも空気に弱くなった。

成り行きやムードを相対化する契機を失う。
状況に入るとその瞬間、外に出られなくなる。
調和を乱したくないので、周りをキョロキョロしながら、みんなはどう思うかを優先する。
というのが空気。

空気は不安から醸成される。
主体を支える世間が失われると不安になる。
不安から世間の穴を埋めていく空気が醸成される。

世間とは、空気とは違う。

阿部謹也「世間論」
・お互い様の関係で絆ができる
・共通時間の共有、そこからの長幼の序の成立
・長幼の序を作り出す、中心を認め合う神秘性
・神秘の中心はそれだけで周りを意味付けするが、他から意味をもらうのではないから、神秘性がある
・(中心の)神秘性を認めるかどうかで排他性や差別性が出る

この世間のルールが近代化により、西洋が入ることにより乱れる。
排他的で差別的なものが乱れ、中心を認めない人が出てきたり、過去の共通時間を持たない人が増える。
地方から東京にやってくることにより共有時間もない。
人付き合いがわからなくて孤独でバラバラになる。

世間が崩れてくると、人々は不安になりキョロキョロする。
力の強い人や大きな声の人の圧により、その火の粉が降り掛からないようにするために、それに従う。事勿れ主義的な振る舞い。
事勿れ主義の空気が広がることで、恣意的なある善悪のルールが世間の穴を埋める。
これが空気であり、合理性がほぼない。
こういう空気が醸成され、全体空気拘束主義はが生まれる恐怖。

「世間」や「空気」という言葉はほぼ同義語のような印象だが、実はまったく別もので、しかもあまり良くないものとして、空気は後から世間を補完する。

空気は消えたり出来たりするので、過去の共通時間の共有時間ができない。

現代は隣人が誰かも分からない根無草的な人が増えて、同じ日本人でありながら、共通の価値観、道徳観などが共有できてないかもしれないので、その中で調和を取ろうとすると、事後的に出てきた空気を勝手に読み解きながら、意思と関係なく振る舞っている。

前近代より近代、近代より現代の方が空気拘束主義が強い。

空気が醸成されると最後どんな科学的データも無力になる。

空気に反する事実を示しても、示すという行為そのものが不道徳なので、指弾され、炎上する。

・緊縮財政主義
・コロナ対策
ウクライナ戦争

マクロとミクロは違うから分けて考えること
マクロで見ることは引いて見ること、引くということは、文脈の外に立って見るということであり、空気から自由である。

何故空気に弱くなったのか?

空気に抵抗できることは、マクロに見る、理性的に見ること。
理性を駆動するためには、理性を支えるための余裕、地盤が必要。これ(世間)がなかった。

55年体制
憲法で定められているから戦争はしない、いざとなったらアメリカに守ってもらう。
対米依存、対米従属
自分たちがどう生きて、どういう危機においてどう振る舞うのか、思考実験をまったく行っていない。
学校や大学ではしていないし、個人で関係性の中で考えるしかない状況。
国家主権が何かが分からないので、それが溶解する。国家理性も分からない。ミクロとマクロも分からない。
父(主体性)のモデルが戦後なくなる
天皇からマッカーサーへ)
自分の足下で父を育てることができない

冷戦構造下での高度経済成長
アメリカの手の上で、朝鮮戦争特需で儲けながら、それを自覚できてない。
しかもアメリカを見るだけの経済成長なので、日本人の生き方、足下が見えない。

どうやって生きたらいいか分からなくて、キョロキョロする。
世界の空気を読みながら、いったん作るとその空気に拘束される。自信がない。
自信を育てるための共同性(母)が崩壊し、自分たちに合った社会の作り方がわからない。

〜1960年代 理想の時代
〜1970年代 夢の時代
〜1980年代、95年 虚構の時代
未来の可能性(虚構)によって自己喪失の穴を埋めていた。

冷戦構造が崩壊することで、ビクビクしだす。
アメリカの顔色を伺う「依存性パーソナリティ」
バブル崩壊して、未来の可能性(インフレ)の消滅により、将来への不安。
周りを見ながら火の粉が降り掛からないように事勿れ主義になる「回避性パーソナリティ」

政治においても、アメリカの機嫌を取りながら卑屈になる。今、今、今だけの空気だけで動いて、空気に従って安全運転をするだけで、なんの意思決定も、筋も、理性もない。

戦後のツケを支払わされている

戦後は日本を再び戦争をさせないために(GHQアメリカは)戦費を調達できないように、平和憲法を維持するために、国債発行させないための法律を作った。実は経済を弱体化させるためのものでもあった。

それに対抗できるための頭脳が日本にはなかった。

世界のパワーバランスが変わりつつある今、日本が独立するにはいい局面が来ているのではないか?
しかし、与党や野党にその力はない。

世代交代すると、日本は良くなるのか?
若い世代はエゴイストが多く、インフルエンサーもそういう人であるので、よりギスギスしかねない。

ミクロとマクロ 認識を上書きする

政治経済に興味があって、その割には政治にも経済にも疎い。

政治家個人にはあまり興味ないし、政治的な駆け引きや勢力争いにも興味ない。

 

ただ、政治家、特に与党の国会議員は大きな影響力を持っているし、だからこそ国民のためになる、国が発展する政策をしてほしいと願ってます。

 

経済っていうともっとわけわからなくて、学校でLM曲線とか習いましたけど、試験で必要だから覚えただけで、もう忘れたし、興味そそられなかった。

 

だけど、経済って「経世済民」という中国の古い言葉の「世を経(おさ)め民を済(すく)う」という言葉から来ていると聞いたので、経済学という学問はそうであってほしいし、そうあるべきだと考えます。

 

という程度の認識なので、専門的なことは分からないけど、興味があるので、多少は知りたいんです。

 

私がよく見る界隈では「デフレ脱却」を掲げる人がたくさんいて、モノの値段が下がるデフレは、一見良さそうだけど、給料が下がって、家計が苦しくなって、ずっと続けば貧乏になる人が増えるよね、って分かる。

 

だけど、最近ガソリンの値段が上がったり、電気代が高くなって、いろんなものの値段も上がって来てる。だけど物を買う方の人たちの収入は上がらない。

(そうでない人もいるだろうけどざっくり言って)

なのに、「日本はデフレで」「デフレからの脱却」って今も言ってる人がまだまだいて、値段上がってるのに「デフレ」なの?という疑問が。

 

 

たまたま見かけたのだけど、これ読んですっと腹に落ちた。

 

それからよく見てる経済アナリスト森永康平さんの動画。


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いろんな人の合成の誤謬の解説聞いたけど、森永さんのがいちばんストンと腹落ちして深く頷いた。

 

不景気な時に一人一人が倹約してお金を使わずに少しでも手持ちのお金を多く蓄えようとする。

ミクロでは個々人や企業の経済に対する自分を守るための、ごく自然な正しい行動。

だけど、全体のマクロで見ると、誰もお金を使わずにいたら、お客さんが来なくて売り上げが落ちる。儲けもなくなり、ボーナスなんて出せない。ボーナスがもらえないから、買い物を控える。そしてまた売り上げを出すために、モノの値段を下げて売りに出す。だけどお金がないからお客さんはそんなに来なくて売り上げが落ちる…経済がどんどん小さくなって、状況は改善されず負のスパイラルが起き、正しいはずの行動が望ましくない結果になってしまう。

それが合成の誤謬

 

それに説得力を感じたのは、ミクロとマクロでは視点も機能も違うから、意識して区別して考えたり、発信することの重要性。

まぜこぜにしたり、ミクロとマクロの違いが分からずに考え、発信するとそれ自体が誤ってしまうというパラドックス

 

巷の議論ではミクロとマクロがごっちゃになっていて、ミクロの視点でマクロを論じたりしていることが多いという。

例えば社会的弱者救済のために政府が金銭的な補助をする政策に対して、「オレたちの税金をそいつらに使うな」というような話。

それが真っ当な議論の顔して歩いているから、誤っていることがずっと誤ったままで、正しいことのようにまかり通っている。

それじゃいくら論じたって、真っ当な結論にはならないよねー。😞

 

動画で森永さんが紹介している、中野剛志さんとの対談動画。


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ここでは中野さんが「合成の誤謬」について話しています。

デフレでどんどん負の循環が加速していく様子を個別の企業なりの対策(ミクロ)とからめて、経済をデフレから脱却させるために、デフレの時は投資をする、しかも莫大な投資をする大馬鹿者が必要。それが政府。

と解説しています。

国家・家計・企業は別の経済形態で、企業経営のように国家運営を見るべきでない。

マクロは全体であって、ミクロの集合体では決してない。

 

そして、政治家像にも言及。

個人が自らの力で努力して成功する。そういう競争社会で生き抜いていく、これからは自己責任で努力が必要だ、という政治家を選んだら、もしその政治家の政策が失敗して、経済が回復しなくても、「努力が大切だと言っただろう」「人のせいにしているから日本は良くならないのだ」と自分の失政の責任は取らずにいつまでもそこへ居続ける。

逆に「政治の責任だ」と言う政治家は失政の責任は取らされる。

国民を助けるための政府の力や機能をどんどん小さくさせ、国民ではなく、ビジネスが最大限に稼ぐことを助けるための政府であるところの、新自由主義の政治が蔓延ることの罪深さ、政治の負のスパイラルの姿が経済ともリンクしている恐ろしさを改めて認識。

 

新自由主義と豊かさからどんどん遠ざかる国民経済の仕組みが、縄を撚るような規則的なものと、長年の誤った政策の蓄積により複雑に絡み合っている。

 

ヤバい日本を何とかしたい!少しでもマシな社会に近づけたい!

これを国民が意思表示できるのは選挙。

経済や政治への認識も上書きして適切に新しくして行く必要があるけれども、普通に日々生活できる幸せの大切さを深く考え、実現する志を持つ人を選びたい。

最後はきっと、その人の顔を見て決めるしかない。

これがないと!なもの ”サードプレイス”

子供のころから、家と学校の生活だけだと息苦しさを感じていた。

どちらも居場所ではない!という感覚。

習い事の先生にいつもいろんな話を聞いてもらっていて、今にして思えば、それがあったからその先の日常が生きられる、という場所であり、先生との関係だった。

 

就職してからもそれは変わらなくて、家と職場の往復だけでは息苦しかった。

職場の同僚と飲みに行くのは嫌だった。話すことといえば職場のこと。うんざり。

仕事以外の時間は友人たちと好きなことをして過ごしたい。その対象に同僚はいなかった。

社会人生活も長くなると、それほど同僚を忌避することはなくなったけど、家と職場だけの生活では、何のために生きてるのか分からないほど考えられない。

 

どんだけ家庭や仕事を嫌がってるんだと見ることもできるけれど、食べるため、生活を整え心地よくなるためや、稼ぐため、仕事にやりがいを感じるためだけに生きているのではないと言いたい。それプラスのものがあってこそ、生きていけるという感覚。

それは音楽が好きな私にとってはライブに行くことであったり、自宅で演奏することだったり、仲間と演奏を楽しむことであったりする。

それを通じて五感で味わうこと、それを分かち合うことが生き生きとさせてくれる。

ある人にとってはそれが別の何かであって、特に珍しくはないかもしれないが。

そんな風に生きてきたので、この動画は刺さりました。

 

「批判覚悟!社交を失いニヒリズムに陥る専門人たち」


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浜崎洋介先生は文芸批評家。雑誌「表現者クライテリオン」編集委員

 

この動画では、2021年9月号から紐解いて話しています。

the-criterion.jp

この雑誌は読んでいないので、取り上げられている記事の詳細は知らないです。

 

2020年コロナで専門家の方の

「42万人死亡説」

www.asahi.com

「8割自粛」

www3.nhk.or.jp

などが社会を席巻するなどし、自粛が始まりました。

ここでは何のために生きているのか(死生観)が問われていて、今回の感染症は毒性がどの程度なのか、生きる喜びや躍動を止める、自粛に値する感染症かの議論をすることへの批判があったと言います。

記事を紹介しつつ、生きていることそれ自体に価値を見出す(生命至上主義・長生き至上主義)はニヒリズム虚無主義)であるという指摘や、医療ビジネス(長生きをさせることで儲かる医療)、医療においても明治以来の西欧主義の悪弊などについての話があり。

 

ここから、最初に書いた個人的な感覚と結びついた話。

 

「サードプレイス」 社交 について

ファーストプレイス 家庭

セカンドプレイス  職場

それぞれ家庭・職場での役割があり、意味という世界にとらわれて息が苦しい。

サードプレイス  社交の場

役割から外れて、1人の人間として社交する楽しさ

狭い視野が外れ、自由に議論できる

生きている、現場にいる手応えを感じる場所。

ここが自粛によってつぶされた場所。

 

どれだけ危険な感染症かは個人的には不明だった。

人が亡くなることは大きな悲しみを生むことではあるけれど、人はいつか、誰でも必ず亡くなる。なのに、何故この感染症で亡くなることは他の原因で亡くなることと比べて特別であるかのように扱われるのか、理解できなかった。

エンタテイメントや飲食店関係者が仕事がキャンセルになったことの方が、理不尽に感じた。

そういったことで楽しさや美しさや明日への活力をもらってきたことを感じていたから、皆が不安になっている時だからこそ、その力が、自分にも、人々にも、社会にも、必要なはずだと思った。

彼ら自身もおそらく、こういう時だからこそ、自分たちの出番だと、人々のために何かしたいと思っていたのではないか。

そういう場所や機会が無くなることが嫌だった。

粛々と在宅ワークしたり、自粛生活を送るだけでは、仮面のような人間、生きものになってしまう気がした。生きてて楽しいのか?それで生きているといえるのか?という思い。

 

浜崎洋介先生の言う「社交の場」は、それを超えたものがその先にあると指摘していると感じた。

 

社交の場で一人の人間として、様々な立場や年齢の人と交流し、議論をすることで、私的なエゴイズム(身を立てるための家庭や労働)を超える。

そこで手ごたえを得て、自信を持って、もっとパブリックな場所へ持っていく。

その議論の積み上げの最初がサードプレイス。

 

動画では「ニュータウン」についても触れられた。

 

そこでは別の街で働く大人が消費をし、寝に帰る。

消費を超えた人とのかかわりー祭り、飲み屋、町で働く人たち、場末がそこにはない。

その街で育つ子供たちには、昼間に大人を見る場所・チャンスがない。

大人が何かがわからない。

大人とは大卒の両親ややはり大卒で教師になった学校の先生ばかり。

大人になるとは、大学に行くことが必須のように思ってしまいがち。

地元の街なら、祭りがあり、家業を営む人たちがいたり、偏差値からあぶれても、いろんな人や、いろいろな生きる場所(=逃げ場)があるという感覚を培うことができる。

ニュータウンではそれが困難。

 

個人的にマンモス団地育ちのため、その感覚はよく分かる。

同じ団地の友達よりも、商店をやっている家の友達の方が、ご両親の顔も姿もハッキリしていて、不思議な安心感があった。

団地の人たちは、大人も地域に関わることはそんなになくて、地域のお祭りも団地のものだった。地元のお祭りではなかった。でも団地の子供たちは、お祭りといえばそれしか知らない。

大人になってから住んだ町で地元のお祭りを知って、人の営みが地元の町と一体になっているのを始めて感じた。

その街で働いて、生活がともにあることがとても大切だと今思う。

子供のころ、学校の先生と両親だけではない大人が私にはいたから、居場所を得る時間と場所があった。何気ないことだけど、それは救いになっていて、有り難いことだったと感じる。

ここでいう、祭りや場末のようなものが「サードプレイス」であり、こうした角度から見ると、誰にとっても大切な場所なのだと思える。

 

人が生きるとは何か?

生きる喜びのために人は生きているのではないか。

そもそも生活を守るための自粛ではなかったか。

生活のバランスは自粛によって崩れていないか?

(サードプレイスを含めた)生活を守りたい、と言えない社会はおかしくないか?

しかし、仕事の現場でそれを感じてても表立って言えない人々が社会にはいる。

であれば、言論人はそれを自由に言うべきだし、それを言うことが仕事だから言っていいと思っている。

 

この動画は流し見して、ぴぴっと来て、いいなと思っていたけど、とても大切なことを言っていると思って見返した。

言葉を拾ってるだけだと、一番コアなところが逃げていってしまう感覚があり、話を聞く姿勢も、こういうことを身に着けることとセットになっていると実感した。

サードプレイス、私にも必要だと痛感します。

 

気になった方はぜひ動画を見てみてください。

ミクロとマクロ - 人々の心が荒んでいく仕組み

長いこと社会のことも、人の心の持ちようにも関心があって、それらを語る人たちの人となりや、社会の捉え方を観察しています。

観察といっても、見てるだけでメモったり記録付けてるという意味ではなく。

個人的には結構大事なことだと思っていて、そういうバランスが自分も含めてすごく大切なんだと思うんですよね。

国民国家である日本の姿や、社会を広い目で捉えて、それがどうあるべきかを認識していたり、そのために必要な政策(経済、外交、社会福祉etc)の理念を持っている人物に政治家や官僚になっていただき、実践していただきたいと願っています。

そういった人たちには、同胞意識や社会貢献の意識や、意欲が高いことが求められると思うけど、個々人の人となりがやはり重要だと考えています。

だけど、それを言葉にまとめて表現する意識も薄く、また、それは当たり前のことで、言葉にすることではない、とどこかで思っていたと思います。

その辺りのことを、経済アナリストの森永康平さんがご自身のYouTubeチャンネルで語っているのを見ました。

【第49回】緊縮財政による棄民政策から脱却せよ!(森永康平)

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税金への誤った認識や社会の状況が国内の社会へもたらす荒んだ状況や、個人の価値観や言動が荒んでいるかを自ら問いかけること、などの話をしています。

誤った税金の機能や仕組みを正しいと思い込んでいたり、経済政策が誤っていることで、約30年間も経済成長できていない日本。

長期的に経済的な豊かさを実感できないことが、人々の心を不安定にし、蝕み、荒ませている。

私たちは国民国家を生きている。
私たちが生まれ育ち、今も暮らしている、この日本という国家で生きる私たち国民が、国家から忘れられたり、排除されることのない、生まれてきてよかった、と感じられるような国家にするための政策や政治家を見定める、マクロな視点。

人々が個々人で心を整えて、自分を見つめて、自分自身が荒んでいないか、を自分自身に問い続け、自分を律する、ミクロな対策。

だけど、個人が自分自身が荒まないように自己点検して生きていくのではなく、国が成長していくことが大事で、そのためにすべき正しいマクロ政策。

そのためには正しい政策をしない政治家は退場してもらうために、選挙へ行って落とすという行動が必要。

といった話をされています。
動画で取り上げているエピソードやネット記事の話も興味深いです。

お子さんのゴミ収集車のエピソードにはすごくほっこり。
素直ってめっちゃいいなー。

そして、紹介されていた記事、

キャッチボールができない君と歩んだ “9時間16分55秒” | NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211228/k10013406661000.html

この記事を読んで、真摯な父親の姿に心打たれました。


森永さんのお話は、淡々としてて、分かりやすくて、その中に熱さがあって、いつも共感しています。

筋トレしてたり、球団のユニフォーム着て番組出たりするところもかわいいですね。