「自己責任」と小泉政権

前回「自己責任論はもう止めよう」という記事を書きました。

 

nekorin.hatenablog.com

この「自己責任」という言葉が、世の中を闊歩し始めたのはいつだろうか?

記憶では、小泉政権の当時、イラク戦争で人質となった日本人3人の事件があった2004年。

 

外務省の海外渡航情報で退避勧告が出ていたイラクに入国していた3人。

また3人の家族がテレビでメッセージを出し(記者会見?)

「犯人の言うとおり、3人のために(当時イラクに派遣されていた)自衛隊を撤退させてほしい」

と言っていた。
それを聞いて、「勧告を無視した3人のために自衛隊を撤退させろと言うなんて、なんて身勝手な人たちだ」と憤慨した。

それは私が自分でそう思ったというよりは、世の中の空気のとおり反応していたんだろう。

 

こんな記事がありました。

bunshun.jp

2018年の記事。

誰のせい、みたいな煽りを感じるタイトルが、自己責任とは反対のイメージに思わせるけど、他人に責任を負わそうとする捉え方が同じ目線、って思う。

だけど、重要なのは誰が言い始めたのか、ではなく、大きなインパクトを社会へもたらした人の言葉だろう。

 

4月16日の毎日新聞・夕刊一面は「3人、18日にも帰国」。その脇には「イラク人を嫌いになれない 高遠さん『活動続ける』」という小見出しがある。高遠菜穂子さんはイラクでボランティア活動をしていたのだが、その活動は今後も続けると答えたのである。
 するとその言葉を聞いた小泉首相は、
《 「いかに善意でもこれだけの目に遭って、これだけ多くの政府の人が救出に努力してくれたのに、なおそういうことを言うのか。自覚を持っていただきたい」と批判した》

わざわざ首相が強い言葉で非難したのだからインパクトは強かった。人々の記憶に強烈に刻まれたのだ。

 

当時、小泉さんのこの言葉に賛同する人が多かったと思う。

私もそうだった。親が親なら子も子で身勝手な人だと。

与党の他の政治家も挙って彼等に反省を促し、責め立てた。

そして記憶をたどると、センセーショナルにこの事件は連日テレビに登場し、世の中お祭り騒ぎ。そして、帰国した3人をあらゆる言葉で批判し、ディスったりしていた。

あるものは正義を唱え、あるものは鬱憤晴らしのように彼らを感情のはけ口にしていた。

 

だけど、時間が経った今だから言えることであるが、その空気の外へ出てこの言葉と状況と人々の置かれた位置を眺めてみると、これは恐ろしいことだ。

 

 国家をあずかる政府の、しかも首相という政府のトップが一国民を非難する。

象が蟻を踏み潰すだけなのに、派手なパフォーマンスで人心を集める。

こんな強いメッセージがあるだろうか。

「自分の主張をするのではなく、政府に感謝し大人しくしていろ」

国のトップはこういうことを言ってはいけない。しかもメディアの前で。

 

そして当時の私も含め、世の人々は小泉首相快哉を叫び、一般人の若者たちを集団の言葉で踏みつけた。

おぞましい。

 

あの時の空気感は、もう20年くらい前のことなのでリアルではないけど、動画を見ると少し思い出せる。


www.youtube.com

コメント欄には

「政策は知らんけど、こういうハッキリとものを言う人がまた出てきてほしい」

みたいなのが溢れててドン引き。

日本はもう落ちるとこまで落ちるしかないのか。

 

この浮かれた答弁やパフォーマンス、敵味方の構図を作って悪を懲らしめる側に立ち、有権者を煽る。

当時の私は「小泉劇場」の言葉のとおり、他人事のように劇場の観客になって笑ってテレビを見ていた。

小泉首相を「この人ちょっと…」と思ったのは、トリノオリンピック荒川静香選手が金メダルを取ったあとに、現地と回線をつないでお祝いの言葉を話していた時。

荒川静香さんは小泉首相の言葉に緊張しながら受け答えしていた一方で、小泉首相荒川静香さんの言葉を最後まで聞かないで、受け止める様子もなく、浮かれながら話の途中に入って言葉を挟み、言いたいことを言っていたのを見た。

それまではいい印象を持っていたので、がっかりしたのを覚えている。

これは荒川静香さんだけでなく、他の人とのやり取りでもきっとこんな風だろうと思ったし、総理大臣がこれで大丈夫なのだろうかと思った。

 

詳しいことは省くけど、小泉内閣の政策のあれやこれやで、日本は人々の繋がりを物心ともに断ち切る方向へ、日本人が物心ともにダメになる方向へ、決定的に舵を切った。

 

個人がバラバラになり、個々人は寄って立つ場所を失ったり、見つけられず、またそこへ依存したりして、足下がおぼつかない。

そんな人が集合した社会。

森永康平さんではないが、ミクロが集まってもマクロにはならない。

マクロの感覚は高いところや、平面的にも距離を取り、時間的な視点を持つことで成り立つもの。

 

自己責任。

少なくとも、子供のころはそんな言葉を聞いたことがない。

しかし、この「自己責任」の言葉と価値観が蔓延している世の中で育った子供はもう大人になっている。

社会を支配する価値観として定着している。

政治だけでなく、日常生活にも溢れている。

 

個人をバラバラにして、対立を煽る構造にある自己責任という言葉。

もうその中にどっぷりいるのだけど、流されるのではなく、抗いたい。