「空気拘束主義」の時代① メモ

森永康平さんのYouTubeチャンネルのゲストに浜崎洋介さんが登場しました。


とても興味深い議論だったのですが、整理を兼ねてメモ書き。


山本七平「空気の研究」
「全体空気拘束主義」

今ある現状の経験的な文脈が固定されている状況
「〇〇は絶対悪」

欧米社会は超越神を相対化する契機を伝統の中に組み込んでいる。
空気からの距離を保っている。

日本にも近代以前には武士道などが、現状的な文脈からの距離を取る態度を教えてくれていたが、近代でそれを捨て去ったので、近現代人はそれ以前の人たちよりも空気に弱くなった。

成り行きやムードを相対化する契機を失う。
状況に入るとその瞬間、外に出られなくなる。
調和を乱したくないので、周りをキョロキョロしながら、みんなはどう思うかを優先する。
というのが空気。

空気は不安から醸成される。
主体を支える世間が失われると不安になる。
不安から世間の穴を埋めていく空気が醸成される。

世間とは、空気とは違う。

阿部謹也「世間論」
・お互い様の関係で絆ができる
・共通時間の共有、そこからの長幼の序の成立
・長幼の序を作り出す、中心を認め合う神秘性
・神秘の中心はそれだけで周りを意味付けするが、他から意味をもらうのではないから、神秘性がある
・(中心の)神秘性を認めるかどうかで排他性や差別性が出る

この世間のルールが近代化により、西洋が入ることにより乱れる。
排他的で差別的なものが乱れ、中心を認めない人が出てきたり、過去の共通時間を持たない人が増える。
地方から東京にやってくることにより共有時間もない。
人付き合いがわからなくて孤独でバラバラになる。

世間が崩れてくると、人々は不安になりキョロキョロする。
力の強い人や大きな声の人の圧により、その火の粉が降り掛からないようにするために、それに従う。事勿れ主義的な振る舞い。
事勿れ主義の空気が広がることで、恣意的なある善悪のルールが世間の穴を埋める。
これが空気であり、合理性がほぼない。
こういう空気が醸成され、全体空気拘束主義はが生まれる恐怖。

「世間」や「空気」という言葉はほぼ同義語のような印象だが、実はまったく別もので、しかもあまり良くないものとして、空気は後から世間を補完する。

空気は消えたり出来たりするので、過去の共通時間の共有時間ができない。

現代は隣人が誰かも分からない根無草的な人が増えて、同じ日本人でありながら、共通の価値観、道徳観などが共有できてないかもしれないので、その中で調和を取ろうとすると、事後的に出てきた空気を勝手に読み解きながら、意思と関係なく振る舞っている。

前近代より近代、近代より現代の方が空気拘束主義が強い。

空気が醸成されると最後どんな科学的データも無力になる。

空気に反する事実を示しても、示すという行為そのものが不道徳なので、指弾され、炎上する。

・緊縮財政主義
・コロナ対策
ウクライナ戦争

マクロとミクロは違うから分けて考えること
マクロで見ることは引いて見ること、引くということは、文脈の外に立って見るということであり、空気から自由である。

何故空気に弱くなったのか?

空気に抵抗できることは、マクロに見る、理性的に見ること。
理性を駆動するためには、理性を支えるための余裕、地盤が必要。これ(世間)がなかった。

55年体制
憲法で定められているから戦争はしない、いざとなったらアメリカに守ってもらう。
対米依存、対米従属
自分たちがどう生きて、どういう危機においてどう振る舞うのか、思考実験をまったく行っていない。
学校や大学ではしていないし、個人で関係性の中で考えるしかない状況。
国家主権が何かが分からないので、それが溶解する。国家理性も分からない。ミクロとマクロも分からない。
父(主体性)のモデルが戦後なくなる
天皇からマッカーサーへ)
自分の足下で父を育てることができない

冷戦構造下での高度経済成長
アメリカの手の上で、朝鮮戦争特需で儲けながら、それを自覚できてない。
しかもアメリカを見るだけの経済成長なので、日本人の生き方、足下が見えない。

どうやって生きたらいいか分からなくて、キョロキョロする。
世界の空気を読みながら、いったん作るとその空気に拘束される。自信がない。
自信を育てるための共同性(母)が崩壊し、自分たちに合った社会の作り方がわからない。

〜1960年代 理想の時代
〜1970年代 夢の時代
〜1980年代、95年 虚構の時代
未来の可能性(虚構)によって自己喪失の穴を埋めていた。

冷戦構造が崩壊することで、ビクビクしだす。
アメリカの顔色を伺う「依存性パーソナリティ」
バブル崩壊して、未来の可能性(インフレ)の消滅により、将来への不安。
周りを見ながら火の粉が降り掛からないように事勿れ主義になる「回避性パーソナリティ」

政治においても、アメリカの機嫌を取りながら卑屈になる。今、今、今だけの空気だけで動いて、空気に従って安全運転をするだけで、なんの意思決定も、筋も、理性もない。

戦後のツケを支払わされている

戦後は日本を再び戦争をさせないために(GHQアメリカは)戦費を調達できないように、平和憲法を維持するために、国債発行させないための法律を作った。実は経済を弱体化させるためのものでもあった。

それに対抗できるための頭脳が日本にはなかった。

世界のパワーバランスが変わりつつある今、日本が独立するにはいい局面が来ているのではないか?
しかし、与党や野党にその力はない。

世代交代すると、日本は良くなるのか?
若い世代はエゴイストが多く、インフルエンサーもそういう人であるので、よりギスギスしかねない。

ミクロとマクロ 認識を上書きする

政治経済に興味があって、その割には政治にも経済にも疎い。

政治家個人にはあまり興味ないし、政治的な駆け引きや勢力争いにも興味ない。

 

ただ、政治家、特に与党の国会議員は大きな影響力を持っているし、だからこそ国民のためになる、国が発展する政策をしてほしいと願ってます。

 

経済っていうともっとわけわからなくて、学校でLM曲線とか習いましたけど、試験で必要だから覚えただけで、もう忘れたし、興味そそられなかった。

 

だけど、経済って「経世済民」という中国の古い言葉の「世を経(おさ)め民を済(すく)う」という言葉から来ていると聞いたので、経済学という学問はそうであってほしいし、そうあるべきだと考えます。

 

という程度の認識なので、専門的なことは分からないけど、興味があるので、多少は知りたいんです。

 

私がよく見る界隈では「デフレ脱却」を掲げる人がたくさんいて、モノの値段が下がるデフレは、一見良さそうだけど、給料が下がって、家計が苦しくなって、ずっと続けば貧乏になる人が増えるよね、って分かる。

 

だけど、最近ガソリンの値段が上がったり、電気代が高くなって、いろんなものの値段も上がって来てる。だけど物を買う方の人たちの収入は上がらない。

(そうでない人もいるだろうけどざっくり言って)

なのに、「日本はデフレで」「デフレからの脱却」って今も言ってる人がまだまだいて、値段上がってるのに「デフレ」なの?という疑問が。

 

 

たまたま見かけたのだけど、これ読んですっと腹に落ちた。

 

それからよく見てる経済アナリスト森永康平さんの動画。


www.youtube.com

 

いろんな人の合成の誤謬の解説聞いたけど、森永さんのがいちばんストンと腹落ちして深く頷いた。

 

不景気な時に一人一人が倹約してお金を使わずに少しでも手持ちのお金を多く蓄えようとする。

ミクロでは個々人や企業の経済に対する自分を守るための、ごく自然な正しい行動。

だけど、全体のマクロで見ると、誰もお金を使わずにいたら、お客さんが来なくて売り上げが落ちる。儲けもなくなり、ボーナスなんて出せない。ボーナスがもらえないから、買い物を控える。そしてまた売り上げを出すために、モノの値段を下げて売りに出す。だけどお金がないからお客さんはそんなに来なくて売り上げが落ちる…経済がどんどん小さくなって、状況は改善されず負のスパイラルが起き、正しいはずの行動が望ましくない結果になってしまう。

それが合成の誤謬

 

それに説得力を感じたのは、ミクロとマクロでは視点も機能も違うから、意識して区別して考えたり、発信することの重要性。

まぜこぜにしたり、ミクロとマクロの違いが分からずに考え、発信するとそれ自体が誤ってしまうというパラドックス

 

巷の議論ではミクロとマクロがごっちゃになっていて、ミクロの視点でマクロを論じたりしていることが多いという。

例えば社会的弱者救済のために政府が金銭的な補助をする政策に対して、「オレたちの税金をそいつらに使うな」というような話。

それが真っ当な議論の顔して歩いているから、誤っていることがずっと誤ったままで、正しいことのようにまかり通っている。

それじゃいくら論じたって、真っ当な結論にはならないよねー。😞

 

動画で森永さんが紹介している、中野剛志さんとの対談動画。


www.youtube.com

ここでは中野さんが「合成の誤謬」について話しています。

デフレでどんどん負の循環が加速していく様子を個別の企業なりの対策(ミクロ)とからめて、経済をデフレから脱却させるために、デフレの時は投資をする、しかも莫大な投資をする大馬鹿者が必要。それが政府。

と解説しています。

国家・家計・企業は別の経済形態で、企業経営のように国家運営を見るべきでない。

マクロは全体であって、ミクロの集合体では決してない。

 

そして、政治家像にも言及。

個人が自らの力で努力して成功する。そういう競争社会で生き抜いていく、これからは自己責任で努力が必要だ、という政治家を選んだら、もしその政治家の政策が失敗して、経済が回復しなくても、「努力が大切だと言っただろう」「人のせいにしているから日本は良くならないのだ」と自分の失政の責任は取らずにいつまでもそこへ居続ける。

逆に「政治の責任だ」と言う政治家は失政の責任は取らされる。

国民を助けるための政府の力や機能をどんどん小さくさせ、国民ではなく、ビジネスが最大限に稼ぐことを助けるための政府であるところの、新自由主義の政治が蔓延ることの罪深さ、政治の負のスパイラルの姿が経済ともリンクしている恐ろしさを改めて認識。

 

新自由主義と豊かさからどんどん遠ざかる国民経済の仕組みが、縄を撚るような規則的なものと、長年の誤った政策の蓄積により複雑に絡み合っている。

 

ヤバい日本を何とかしたい!少しでもマシな社会に近づけたい!

これを国民が意思表示できるのは選挙。

経済や政治への認識も上書きして適切に新しくして行く必要があるけれども、普通に日々生活できる幸せの大切さを深く考え、実現する志を持つ人を選びたい。

最後はきっと、その人の顔を見て決めるしかない。

これがないと!なもの ”サードプレイス”

子供のころから、家と学校の生活だけだと息苦しさを感じていた。

どちらも居場所ではない!という感覚。

習い事の先生にいつもいろんな話を聞いてもらっていて、今にして思えば、それがあったからその先の日常が生きられる、という場所であり、先生との関係だった。

 

就職してからもそれは変わらなくて、家と職場の往復だけでは息苦しかった。

職場の同僚と飲みに行くのは嫌だった。話すことといえば職場のこと。うんざり。

仕事以外の時間は友人たちと好きなことをして過ごしたい。その対象に同僚はいなかった。

社会人生活も長くなると、それほど同僚を忌避することはなくなったけど、家と職場だけの生活では、何のために生きてるのか分からないほど考えられない。

 

どんだけ家庭や仕事を嫌がってるんだと見ることもできるけれど、食べるため、生活を整え心地よくなるためや、稼ぐため、仕事にやりがいを感じるためだけに生きているのではないと言いたい。それプラスのものがあってこそ、生きていけるという感覚。

それは音楽が好きな私にとってはライブに行くことであったり、自宅で演奏することだったり、仲間と演奏を楽しむことであったりする。

それを通じて五感で味わうこと、それを分かち合うことが生き生きとさせてくれる。

ある人にとってはそれが別の何かであって、特に珍しくはないかもしれないが。

そんな風に生きてきたので、この動画は刺さりました。

 

「批判覚悟!社交を失いニヒリズムに陥る専門人たち」


www.youtube.com

浜崎洋介先生は文芸批評家。雑誌「表現者クライテリオン」編集委員

 

この動画では、2021年9月号から紐解いて話しています。

the-criterion.jp

この雑誌は読んでいないので、取り上げられている記事の詳細は知らないです。

 

2020年コロナで専門家の方の

「42万人死亡説」

www.asahi.com

「8割自粛」

www3.nhk.or.jp

などが社会を席巻するなどし、自粛が始まりました。

ここでは何のために生きているのか(死生観)が問われていて、今回の感染症は毒性がどの程度なのか、生きる喜びや躍動を止める、自粛に値する感染症かの議論をすることへの批判があったと言います。

記事を紹介しつつ、生きていることそれ自体に価値を見出す(生命至上主義・長生き至上主義)はニヒリズム虚無主義)であるという指摘や、医療ビジネス(長生きをさせることで儲かる医療)、医療においても明治以来の西欧主義の悪弊などについての話があり。

 

ここから、最初に書いた個人的な感覚と結びついた話。

 

「サードプレイス」 社交 について

ファーストプレイス 家庭

セカンドプレイス  職場

それぞれ家庭・職場での役割があり、意味という世界にとらわれて息が苦しい。

サードプレイス  社交の場

役割から外れて、1人の人間として社交する楽しさ

狭い視野が外れ、自由に議論できる

生きている、現場にいる手応えを感じる場所。

ここが自粛によってつぶされた場所。

 

どれだけ危険な感染症かは個人的には不明だった。

人が亡くなることは大きな悲しみを生むことではあるけれど、人はいつか、誰でも必ず亡くなる。なのに、何故この感染症で亡くなることは他の原因で亡くなることと比べて特別であるかのように扱われるのか、理解できなかった。

エンタテイメントや飲食店関係者が仕事がキャンセルになったことの方が、理不尽に感じた。

そういったことで楽しさや美しさや明日への活力をもらってきたことを感じていたから、皆が不安になっている時だからこそ、その力が、自分にも、人々にも、社会にも、必要なはずだと思った。

彼ら自身もおそらく、こういう時だからこそ、自分たちの出番だと、人々のために何かしたいと思っていたのではないか。

そういう場所や機会が無くなることが嫌だった。

粛々と在宅ワークしたり、自粛生活を送るだけでは、仮面のような人間、生きものになってしまう気がした。生きてて楽しいのか?それで生きているといえるのか?という思い。

 

浜崎洋介先生の言う「社交の場」は、それを超えたものがその先にあると指摘していると感じた。

 

社交の場で一人の人間として、様々な立場や年齢の人と交流し、議論をすることで、私的なエゴイズム(身を立てるための家庭や労働)を超える。

そこで手ごたえを得て、自信を持って、もっとパブリックな場所へ持っていく。

その議論の積み上げの最初がサードプレイス。

 

動画では「ニュータウン」についても触れられた。

 

そこでは別の街で働く大人が消費をし、寝に帰る。

消費を超えた人とのかかわりー祭り、飲み屋、町で働く人たち、場末がそこにはない。

その街で育つ子供たちには、昼間に大人を見る場所・チャンスがない。

大人が何かがわからない。

大人とは大卒の両親ややはり大卒で教師になった学校の先生ばかり。

大人になるとは、大学に行くことが必須のように思ってしまいがち。

地元の街なら、祭りがあり、家業を営む人たちがいたり、偏差値からあぶれても、いろんな人や、いろいろな生きる場所(=逃げ場)があるという感覚を培うことができる。

ニュータウンではそれが困難。

 

個人的にマンモス団地育ちのため、その感覚はよく分かる。

同じ団地の友達よりも、商店をやっている家の友達の方が、ご両親の顔も姿もハッキリしていて、不思議な安心感があった。

団地の人たちは、大人も地域に関わることはそんなになくて、地域のお祭りも団地のものだった。地元のお祭りではなかった。でも団地の子供たちは、お祭りといえばそれしか知らない。

大人になってから住んだ町で地元のお祭りを知って、人の営みが地元の町と一体になっているのを始めて感じた。

その街で働いて、生活がともにあることがとても大切だと今思う。

子供のころ、学校の先生と両親だけではない大人が私にはいたから、居場所を得る時間と場所があった。何気ないことだけど、それは救いになっていて、有り難いことだったと感じる。

ここでいう、祭りや場末のようなものが「サードプレイス」であり、こうした角度から見ると、誰にとっても大切な場所なのだと思える。

 

人が生きるとは何か?

生きる喜びのために人は生きているのではないか。

そもそも生活を守るための自粛ではなかったか。

生活のバランスは自粛によって崩れていないか?

(サードプレイスを含めた)生活を守りたい、と言えない社会はおかしくないか?

しかし、仕事の現場でそれを感じてても表立って言えない人々が社会にはいる。

であれば、言論人はそれを自由に言うべきだし、それを言うことが仕事だから言っていいと思っている。

 

この動画は流し見して、ぴぴっと来て、いいなと思っていたけど、とても大切なことを言っていると思って見返した。

言葉を拾ってるだけだと、一番コアなところが逃げていってしまう感覚があり、話を聞く姿勢も、こういうことを身に着けることとセットになっていると実感した。

サードプレイス、私にも必要だと痛感します。

 

気になった方はぜひ動画を見てみてください。

ミクロとマクロ - 人々の心が荒んでいく仕組み

長いこと社会のことも、人の心の持ちようにも関心があって、それらを語る人たちの人となりや、社会の捉え方を観察しています。

観察といっても、見てるだけでメモったり記録付けてるという意味ではなく。

個人的には結構大事なことだと思っていて、そういうバランスが自分も含めてすごく大切なんだと思うんですよね。

国民国家である日本の姿や、社会を広い目で捉えて、それがどうあるべきかを認識していたり、そのために必要な政策(経済、外交、社会福祉etc)の理念を持っている人物に政治家や官僚になっていただき、実践していただきたいと願っています。

そういった人たちには、同胞意識や社会貢献の意識や、意欲が高いことが求められると思うけど、個々人の人となりがやはり重要だと考えています。

だけど、それを言葉にまとめて表現する意識も薄く、また、それは当たり前のことで、言葉にすることではない、とどこかで思っていたと思います。

その辺りのことを、経済アナリストの森永康平さんがご自身のYouTubeチャンネルで語っているのを見ました。

【第49回】緊縮財政による棄民政策から脱却せよ!(森永康平)

www.youtube.com

税金への誤った認識や社会の状況が国内の社会へもたらす荒んだ状況や、個人の価値観や言動が荒んでいるかを自ら問いかけること、などの話をしています。

誤った税金の機能や仕組みを正しいと思い込んでいたり、経済政策が誤っていることで、約30年間も経済成長できていない日本。

長期的に経済的な豊かさを実感できないことが、人々の心を不安定にし、蝕み、荒ませている。

私たちは国民国家を生きている。
私たちが生まれ育ち、今も暮らしている、この日本という国家で生きる私たち国民が、国家から忘れられたり、排除されることのない、生まれてきてよかった、と感じられるような国家にするための政策や政治家を見定める、マクロな視点。

人々が個々人で心を整えて、自分を見つめて、自分自身が荒んでいないか、を自分自身に問い続け、自分を律する、ミクロな対策。

だけど、個人が自分自身が荒まないように自己点検して生きていくのではなく、国が成長していくことが大事で、そのためにすべき正しいマクロ政策。

そのためには正しい政策をしない政治家は退場してもらうために、選挙へ行って落とすという行動が必要。

といった話をされています。
動画で取り上げているエピソードやネット記事の話も興味深いです。

お子さんのゴミ収集車のエピソードにはすごくほっこり。
素直ってめっちゃいいなー。

そして、紹介されていた記事、

キャッチボールができない君と歩んだ “9時間16分55秒” | NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211228/k10013406661000.html

この記事を読んで、真摯な父親の姿に心打たれました。


森永さんのお話は、淡々としてて、分かりやすくて、その中に熱さがあって、いつも共感しています。

筋トレしてたり、球団のユニフォーム着て番組出たりするところもかわいいですね。

方丈記(鴨長明)を読んでみた①

鎌倉時代初期の随筆家、歌人である鴨長明の代表作、方丈記を現代語訳付きで読んでみた。 

 下鴨神社賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ))の禰宜、鴨長継の次男として久壽(きゅうじゅ)二(西暦1155)年ごろ出生。平安貴族から武士へ権力の移行する時代の社会、平家の栄枯盛衰や源平合戦から鎌倉時代初期までを生き抜いた長明の時代と、この「方丈記」に書かれたことを辿ってみたいと思います。

長明が書いた言葉、言葉の発する音や意味を感じられるように読み、今という時代との違和感や、時代を超えても繋がっている感じをできるだけ多く味わってみたいです。

日本が降伏した日

終戦の日」の前、作家の佐藤健志さんのブログを読みました。

平成最後の終戦の日、または「とにかく豊かになったのだから」を終わらせよう | 佐藤健志 official site ”Dancing Writer”

1945年8月15日は

日本と連合国の戦争が終わった日ではありません。

それはサンフランシスコ平和条約の発効した1952年4月28日。

 

しかも1945年8月15日は

日本が連合国に降伏した日ですらありません。

それはミズーリ号で降伏文書調印の行われた1945年9月2日。

 

ならば連合国にたいしてポツダム宣言の受諾を伝えた日か?

いえいえ、それは1945年8月14日。

 

1945年8月15日は

連合国にたいするポツダム宣言の受諾を、玉音放送という形で対内的に公表した日

にすぎないのです。

 

日本人のほとんどは

あの放送で初めて陛下の肉声を聴いたのですから

強烈なインパクトがあったのは想像に難くない。

 

しかし国際的には、さして意味のある日付ではないのです。

まあ韓国や北朝鮮のように、

この日を「光復節」や「解放記念日」として重視してくれる

ありがたい国もあるにはありますが

いかんせん少数派。

 

とはいえ、あの戦争の敗北からまず学ぶべき教訓があるとすれば、

それは次のようなものではないのか。

 

外国と関わる際、

とくに自国の覇権を確立しようとする際には

自分の都合や尺度にあわせて物事を考えるべからず。

なにせ相手は外国(人)なのだ。

向こうの視点を理解したうえで

つねに最悪の(=自分にとって都合の悪い)事態を想定するくらいでないかぎり

いかに善意や正義があろうと失敗する。

 

その意味で8月15日を「終戦の日」と呼んでいる間は

われわれは過去の教訓をちゃんと学んでいないと思うわけです。

 

ついでに気になるのは

9月2日や4月28日ではなく

8月15日を「終戦の日」と見なすことが

じつは現実逃避としての側面を持っている点。

 

だってそうでしょうに。

9月2日を「終戦の日」としたら、

戦争はただ終わったのではなく

日本の敗北と降伏で終わったことがクローズアップされる。

4月28日なら、

占領もまた戦争の一部だったことがクローズアップされます。

 

早い話が

日本の力ではどうにもならないところで歴史が動いていたことを

直視せざるをえなくなるんですな。

 

しかるに8月15日なら

昭和天皇の力で歴史が動いたかのごとく

印象づけられるではありませんか。

 

8月15日は日本人にとっては重要な日で、それぞれの気持ちを思い起こし、考え、それを表出させてきた。

けれども、玉音放送の重みもあり、あの日に戦争が終わったことを噛みしめていたことが、実は戦争に負けたことを直視せず、やり過ごす口実にもなっているのかもしれない、と思った。

その1週間くらい前には広島・長崎の原爆の日があったけれど、ニュースでは「戦争の惨禍を繰り返さない」「平和への誓い」など、誰が原爆を二つの都市に投下したのか、にすら触れないことに大きな違和感と不快感があった。

その後、上記の記事を読んだとき、頬をパンパンと叩かれた感じがした。
であるなら、「戦争に敗れた」事実をもっとしっかり感じなければ、と思った。

戦争の体験もなく、肉親や語り部からの伝聞、書物や映像で見聞きするだけの戦争。

心許ない現実感しかないまま、どこまで感じ取れるだろう。

 

8月14日のポツダム宣言受諾が公表された翌15日の玉音放送を経て、昭和20年9月2日、東京湾上のミズーリ号で降伏文書(休戦協定)の調印式が行われた。

ミズーリ号が停泊した場所について:

そこは、かつて日本に開国を迫ったペリー提督が日米和親条約調印の際、旗艦としていたポーハタン号を停泊させていたのと同じ場所と言われる。そんな演出を考えたGHQ連合国最高司令官総司令部マッカーサー元帥も、当日艦上での演説前には、緊張が隠せなかったという。 

NHKは何を伝えてきたか 国際放送の80年 国際放送年代史+サービス概要 1935~2015 より

また、マッカーサー1854年日米和親条約が締結されたときのペリー艦隊「ポーハタン号」に掲揚されていた星条旗を調印式の場に持ち込んでいた。アメリカらしい執念を感じる。

主な参列者:

日本 重光葵(外相) 梅津美治郎参謀総長

連合国 ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官

各国代表 米国・中国・英国・ソ連・豪州・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランド 

主な内容

  • その所在地に関わらず日本軍全軍へ無条件降伏布告。全指揮官はこの布告に従う
  • 日本軍と国民へ敵対行為中止を命じ、船舶・航空機、軍用非軍用を問わず財産の毀損を防ぎ連合国軍最高司令官及びその指示に基づき日本政府が下す要求・命令に従わせる
  • その所在地に関わらず、日本の支配下にある全ての国の軍隊に無条件降伏させる
  • 公務員と陸海軍の職員は、日本降伏のために連合国軍最高司令官が実施・発する命令・布告・その他指示に従う 非戦闘任務には引き続き服する
  • ポツダム宣言の履行及びそのために必要な命令を発しまた措置を取る
  • 天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認める処置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる
  • 日本政府と大本営は捕虜として抑留している連合軍将兵を即時解放し必要な給養を受けさせる

日本の降伏文書 - Wikipedia )


Japanese Sign Final Surrender 日本の降伏

この動画の2:35くらいにポーハタン号から持ち込んだ星条旗が写っている。

式典終了後、米海軍の飛行機が連帯を組んで東京湾上空を飛行した。日本が戦争に負けたことを象徴する映像。動画の終りの方でも見られる。

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降伏文書の発効を受けて昭和天皇による「降伏文書調印に関する詔書」を発せられた。

 朕ハ昭和二十年七月二十六日米英支各国政府ノ首班カポツダムニ於テ発シ後ニ蘇聯邦カ参加シタル宣言ノ掲フル諸条項ヲ受諾シ、帝国政府及大本営ニ対シ、聯合国最高司令官カ提示シタル降伏文書ニ朕ニ代リ署名シ且聯合国最高司令官ノ指示ニ基キ陸海軍ニ対スル一般命令ヲ発スヘキコトヲ命シタリ
朕ハ朕カ臣民ニ対シ、敵対行為ヲ直ニ止メ武器ヲ措キ且降伏文書ノ一切ノ条項並ニ帝国政府及大本営ノ発スル一般命令ヲ誠実ニ履行セムコトヲ命ス
御名御璽
昭和二十年九月二日
東久邇宮内閣閣僚全員連署

 これより、日本は連合国の占領下に置かれ、サンフランシスコ講和条約の発効(昭和27(1952)年4月28日)により、停戦状態から終戦を迎えることになる。

そう考えると、「終戦の日」が8月15日、というのは国内の一定の者にとっては都合が良い括り方になっていると感じる。

 

そして今日(9月2日)、靖國神社に行きました。

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込み上げる気持ちはいつもと同じものもあったけど、やっぱり違い、申し訳ない気持ちが当時のことにも、今のことにも浮かび上がり、だけどこのまま負け続ける訳にはいかない、と思うのがやっとだった。

そして、その足で帰る生活の場には「負けた日」を織り込むにはあまりに感覚のズレがあると感じていた。

八甲田山雪中行軍記念館

青森市八甲田山雪中行軍記念館。

昭和53年に民間の有志の方により開館、平成16(2004)年に再整備され、青森市により運営されています。

訪れたのは、5月の中旬ごろ。

goo.gl

http://www.moyahills.jp/koubataboen/index.html 

4月1日~10月31日 9:00~18:00

11月1日~3月31日 9:00~16:30

(休館日 12月31日~1月1日 2月21日~2月22日)f:id:nekotower:20180729020646j:image

この場所に面した道を通って、当時、第五歩兵連隊が八甲田山へ向けて行軍したのだとガイドさんから聞きました。


資料館の中は撮影がダメだと思ったので、写真は撮りませんでした。
(実際は撮影できます。資料館サイトに明記)

展示の内容は、遭難した青森第五連隊と同時期に行軍していた弘前第三十一連隊の行軍の様子、遭難の顛末、食料や装備について、当時の装備品(現代の自衛隊との比較)、救援、捜索の顛末まで。

スクリーンでの概要の上映、現地ガイドさんの解説などとてもわかりやすく丁寧で地元の方が大切にされているのを感じました。

下は隣接する陸軍墓地。明治36(1903)年創設。
写真中央奥の墓碑は下士官以上の方と当時生還された11名の方の墓碑、その前に並ぶ墓碑は189名の方の墓碑。
墓地を囲むように植えられている多行松(タギョウショウ)は墓地の創設時に四国から移植されたものだそうです。
冬はここに雪が深く積もるので、墓碑も雪に埋もれてしまうそうです。
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毎冬、陸上自衛隊青森駐屯地第五普通科連隊が八甲田演習を行っていて、この墓地を訪れています。 

www.asahi.com

  隊員は青森市幸畑の陸軍墓地にある慰霊碑に献花した後、午前8時ごろ、重さ約20キロの荷物と小銃を背負って雪道を歩き始めた。

 

墓地の端に「明治35年雪中行軍遭難凍死者英霊堂」がひっそり佇んでいました。
(昭和16(1941)年5月12日建立)
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かなり建物は古くて、75年も青森の厳しい風雪に耐えて立っている姿は健気に英霊を守っているようでした。
ガイドさん曰く、この英霊堂の管理は教育委員会がしているので、資料館を管理している青森市とは別なので、古いままで手が付けられていないのだとか。
本当に顕彰し、後世に伝えるのであれば、行政の都合で放置しないで改修でも何でもしてしっかりと守ってほしい。

 

英霊堂の前に狛犬が二匹います。

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この犬は二匹ともアイヌ犬とのことで、捜索に北海道から出動したアイヌとともに活躍したアイヌ犬の産んだ子供、との説明書きがありました。
ガイドさん曰く、アイヌ犬の狛犬は日本でここだけだとのこと。

 お堂の中には、雪中行軍に参加した210名の英霊の木像がありました。
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この木像を見た時、熱いものが込み上げて、英霊の皆さんがここにお祭りされているのだと強く感じました。

ガイドさんの話では、当時地元の仏師さんが一人一人の像を手作りして奉納したのだそうです。
一人一人の台座の上には、その方の階級とお名前とが記されていますが、長い年月のうちに木像の傷みが進み、ご遺族が手入れをしたものはお名前もはっきりと読み取れるけれど、そうでないものはそのままになってしまっているとのことです。
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「製作 佛光堂 中崎佛壇店 佛師 中崎英吉」とあります。
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 この古いお堂の両脇いっぱいに古い木像が並んでいるのを見て、資料館では見ることがなかった、地元の人々が寄せていた思いを感じました。
映画や小説に描かれたことや、遠い歴史の一コマだけでなく、確かに地元の人たちとともにこの事件があったし、彼らを顕彰する地元の人たちの姿があった。

この英霊堂と木像の英霊たちが、資料館を訪れる人たちの目に今よりもっと触れてもらえますように、切に願います。